意識を変えることよってあなたは人生をどう生きるか、決めることができる。
「自分が変化する」勇気があれば。
どのような環境で生きてきたかは、関係ないのです。
その環境や過去をどう解釈し、そこから何を学び取るかは、あなた次第。
こんばんは、ラブです。
春に向けて、ココロを強く持ちたい時、アドラー先生は腹の底から効きますね!
タイトルに偽りなく、勇気をくれます。
実は『幸せになる勇気』も読んでいるのですが、まだまだワタシは未熟モノなので未消化です。
まずは、こちらで基本をしっかりつかもうと思います。
なぜ「人は変われる」のか
過去に親との関係、または学校や職場でのいじめがあって、家から出られなくなった人がいたとします。
フロイト的に考えるならば、「トラウマ」が原因となってしまった、いわば「仕方ない」反応と説明できるでしょう。
しかし、アドラー心理学では全く違う解釈をします。
「過去」の「原因」と「現在の状態」は違うものと考えるのです。
虐待を受けて育ち、愛情を知らずに育って、だから他者と交わるのが怖くて、外に出られない。
しかし、家庭不和だった子ども、いじめを受けた人が全員引きこもる、ということはありませんね。
つまり、すべてが過去の出来事によって決定済みであり、動かしようのないものである、という考えは間違っているのです。
アドラー心理学ではでは、「現在の状態」についての説明は、「過去の原因」にあるのではなく、「今の目的」でつくものであると考えます。
「不安だから、外に出られない」のではありません。
「外に出たくないから、不安という感情を作り出している」のです。
外に出られないその人が、お腹が痛かったり、頭痛に悩まされているとしたら、それは仮病ではないでしょう。
しかし、それらの症状もまた「外に出ない」という目的を達成するために作り出されたものだと考えます。
トラウマを否定する
私たちは、さまざまな経験をします。
そのいかなる経験も、成功の原因でも失敗の原因でもない、と考えるのです。
わたしたちは、経験の中から「現在の自分の目的にかなうもの」を見つけ出しているだけだとアドラー心理学では言います。
私たちは自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定しているのです。
精神的な意味での虐待(過度の期待を押し付ける、比較するなどもワタシは含めると思います)を受けて生きてきた人は、実際にはたくさんいると思います。
もしあなたが、親からの何かを受けて苦しんだとしても、その経験を活かして、自分が親になって子育てする時に「絶対に100%の愛情をかけて育てるんだ!!」と意気込むかもしれません。
その経験を活かして、何かおかしいな?と思う子どもがいたら、真っ先に児童相談所に電話してくれるかもしれません。
そうした子たちのために涙を流すかもしれません。
確かに引きこもりになれば、親に復讐できます。
理不尽な要求を小さかった自分に突き付けてきた憎い相手が、引きこもりを抱えてひーひー言ってくれるのですから。
しかし、自分の人生をかけてまで復讐に生きるかどうかは、本人次第ではありますよね。
あらゆるさまざまな経験をするのが人生。
しかし、その経験から自分のありかたを選択するのは、常にあなた自身なのかもしれません。
つまり、今後も命題となることですが、あなたは、どんなあなたを選択することもできるのです。
人は怒りさえねつ造する
昨夜のことです。
主人がワタシの作ったシチューを食べませんでした。
「俺はシチューが嫌いだ」
と最近言い出して、食べなくなったのです。
シチューを作る日はワタシが疲れている日です。
いい加減に作ったモノは食べたくない、という旦那の気持ちもわかります。
職場復帰を控えているので、極力「旦那だけ別メニュー」の労力は避けたかった!!
なんて思惑もかすめつつ、ワタシは怒りをあらわにしました。
このとき、かなりの怒りを表現していましたが(耳にウォークマンをして、最大音量にし夫のおしゃべりに付き合わない&9時に寝る)、
「この怒りは、自分の都合が悪いから起きている感じがするな?」
と薄々感じていました。
結局和牛たっぷりのおいしいシチューは、「ばかだねぇ」と笑う息子が平らげてくれました(笑)。
怒りは、常に「自分の都合のよいように」作り出されますね~(反省)。
あなたは誰かが、「かっとなって」いるところを見たことがありますか?
あなたが客観的に見て、その人が「かっとなって」いたのは、「怒りを表現する方が、その人に都合のよい何かがある」場面だったのではないでしょうか?
クレーマーの人たちは、商品やサービスに問題があるからクレームをつけるのではなく、「誰かに怒りをぶつけたい」からクレームを言っていますよね。
アドラー心理学では、「怒りは出し入れ自在な道具である」と位置付けています。
相手を威圧したり、自分の意見を無理やりにでも通したり、主張を押し通したりしたいとき、「怒り」という道具を使っているに過ぎないのです。
もしあなたが、変なクレーマーに捕まってしまったとしても、客観的によく見てみると、その人の目的は別のところにあるかもしれません。
政治家でも「恫喝」を手段に官僚を操っていた人がいたようですが、非常にみっともないですね。
自分に都合が悪くても、論理的に訴えたり、「ふふふ」と流せる大人の女性になるのだ!という反省をしたいと思います。
新しい季節が近づいてきました。
緊張でドキドキしますが、アドラー先生にキモチを締め直してもらおうと思っています。
今日も温かい一日でしたね。
関東では、桜が咲き始めています。
明日もあなたにとって素敵な1日でありますように!
では、また。