他人の期待から自由になって、本当のあなたの人生を取り戻しませんか?
対人関係の課題も、「嫌われる勇気」を持つことで一気に軽くすることができます。
こんばんは、ラブです。
まずあなた自身が自由になることが大事です。
あなたが自由になるために必要なこと。
それは承認欲求を否定し、誰かの期待に応えようとすることもやめることです。
あらゆる選択の結末は、それによって最終的に引き受ける人の課題です。
他の人の課題には踏み込んではなりません。
そして、あなたの課題にも誰も踏み込ませてはならないのです。
そして、自由とは「他者から嫌われること」でもあります。
「人生のタスク」という人間関係から
わたしたちの人生には、目的があります。
行動面では「自立すること」「社会と調和して暮らせること」
この行動を支える心理面の目標が「わたしには能力がある」「人々はワタシの仲間である」という意識
それを達成するには、人生のタスク(課題)という対人関係に向き合わなければなりません。
これらの対人関係のタスクをアドラーは、「仕事のタスク」「交友のタスク」「愛のタスク」と分け、後になるほど難易度が高いとしています。
ワタシは「愛のタスク」で著しく躓いています。
両親との親子関係について、逃げ出してしまったからです。
それが遠因となるのかもしれませんが、現在の夫婦関係にも難しさを持っています。
「直面する人間関係と対決すること」から逃げ出さないこと。
「他人は変えられない」という言葉を大義名分にして、話し合いそのものから逃げ出していては、結局何も変えられない。
しかし、その勇気が出ない。
それは、自分の心が「他人の課題」に勝手に縛られているからなのかもしれません。
承認欲求を否定する
心理学者マズローなどによる欲求階層説は、日本の一般的な社会で常識(コモンセンス)とされているモノだと思います。
ごくざっくり説明です。
「食べたい」「眠りたい」「子孫を残したい」などの「生理的欲求」を原始的な、生物としての基盤の欲求として一番下に位置づけます。
さらにひとつ上が「生命保存の欲求」として「安全の欲求」。
そしてピラミッドの上に行くほどに「社会性を持つ人間としての欲求」と位置付けられています。
その上から2つ目にある「認められることへの欲求」。
これを「承認欲求」と呼ぶべきか、それともさらに高次のもの(限りなく自己実現の欲求に近い、「人からの称賛」よりも社会的意味を成すものを指す)と考えるべきか、それは専門家の判断を待つこととします。
一般的にこの「認められることへの欲求」を、現代社会では「承認欲求」として広く認知されていると思います。
アドラーはおよそ80年前に亡くなっている心理学者でありながら、この現在のコモンセンスを否定しています。
わたしたちは、他者からの承認を求めて生きてはならないのです。
他人の期待を満たすために あなたが生きているわけではない!
他者からの承認を求め、他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになります。
たとえば、「子どもたちのゴミ拾い」を挙げてみます。
ゴミを拾うのはすばらしい行為ですが、「みんなが見ているから」「ほめてくれる人がいるから」率先して拾うという教育活動では、意味を成しません。
それはひいては、「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」「罰する人がいなければ、不適切な行動をもとる」という誤ったライフスタイルを植え付けてしまいます。
「他者の期待を満たすため」の行動は、他者が抱いた「こんな人であってほしい」という期待をなぞって生きていくことにもなります。
つまり、本当のあなたを捨てて、他者の人生を生きることになってしまう。
あなたは、他者の期待を満たすために生きているのではないのです。
そして、
他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているわけではない」のです。
組織の中で出世したいと願い、地位や名声を求め、社会からひとかどの人間として認められたいと多くの人が思います。
ワタシもそう思っていました。
しかし、そこで承認をそこそこ得られたとしても、それと自分が幸福かどうかは全く別の問題でした。
他者の期待に生きる怖さ
「他者の期待」は麻薬ですね。中毒性が非常に強く、しびれるような快感を伴いますよね。
しかし、「他者の期待」ばかりにず------っと注目して仕事をしていると、胸の奥からもぞもぞとした違和感を感じるようになりました。
どんなにほめられても、何だか嬉しくない。そんなことがありませんか?
評価してくれる人の視線や、今日の評価におびえるようになってきます。
それは、「あなた」が「あなた」であることを否定している証拠なのです。
ストレス解消にお酒をあおってその場で傍若無人なことをしても、結局は目が覚めれば「あなた」ではない「あなた」の毎日が待っているだけ。
そこで有効なのが、「これは誰の課題なのか?」と考えることです。
課題を分離する
たとえば親が「勉強しなさい」とわが子に口うるさく言ったとします。
よくある光景だし、必要な言葉ではあるでしょう。
しかし、勉強しなくて困るのは誰でしょうか?
その子本人ではないでしょうか?
将来、どう困るのか。頑張るとどう楽しいのか。
年齢やその子の理解度に合わせて、そこをじっくりと話し合うことは必要です。
そのうえで結末を引き受ける子どもに、選択させる。
それが大事なのではないでしょうか。
塾のCMやママ友との付き合いの中、親の心情には常に「見栄」や「世間体」がじわじわと乗っ取りに来ています。
しかし、わが子が本当にやりたいことや、どこまで勉強への必然性を感じているか、理解するには、エネルギーと時間を必要とします。
それで、手っ取り早く「勉強しなさい」と「指示した」ことで満足する。
子どもの課題に踏み込む習慣があれば、進路についてもあれこれと踏み込んでしまうでしょう。
あなたがもし、親に決められた高校や大学、就職先に進んでいたとしたら、どうでしょうか?
どんなに素晴らしい環境であっても、楽しいわけがありませんよね。
「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない」
ということわざがあるそうです。
自分を変えることは、自分しかできません。
環境までは整えてあげることができますが、その先は子どもの課題ですね。
他者の課題は、燃えるゴミの日に出してしまう
理不尽なことを要求する上司に、毎日憂鬱な気分にさせられていたとします。
しかし、そういうものに、あなたが頭を悩ませる必要はないのです。
理不尽になる感情は、上司自信が始末するべき課題です。
すり寄る必要もないし、自分を曲げてまで頭を下げる必要はありません。
私たちがすることは、自分の人生に嘘をつくことなく、自分の課題に立ち向かうこと。
アドラーが言っているように、私たちの悩みの全ては対人関係によるものです。
そこで解決の糸口になるのが、「これは、誰の課題なのか?」と考えることです。
どこまでが自分の課題で、どこからが他者の課題なのか、冷静に線引きすること。
そして、他者の課題には介入せず、自分の課題にはだれひとりとして介入させない!
自由になる
誰かの期待を満たし、見返りを求めることで、わたしたちは「自分」を気づかないうちに手放しています。
承認欲求は不自由を強いるのです。
「いかに生きるべきか」という壁は、自分自身が対決するもの。
親だからとか友達だからと、他者の課題に介入することこそ、自己中心的な発想なのです。
自由は他者から嫌われること
あなたがもし、誰かに嫌われているとしたら、それはあなたが自由に生きている証であり、自分の方針に従って生きていることのしるしです。
たしかに、嫌われることは苦しいけれど、すべての人に嫌われないように立ち回る生き方は、不自由極まりないですよね!!
自由を行使するには、実は大きなコストが必要なのです。
そして、自由のコストは「他者から嫌われること」です。
他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを恐れず、承認されないかもしれないコストを支払わない限り、自分の生き方を貫くことはできない。
つまり自由になれないのです。
「嫌われたくない」と願うのは、わたしたちの課題かもしれません。
しかし、「あなたを嫌うかどうか」は、他者の課題です。
あなたを良く思わない人がいたとしても、そこに介入することはできません。
「馬を連れていく」ことはできても、水を呑むかどうかは、その人の課題だからです。
幸せになる勇気には「嫌われる勇気」が含まれます。
その勇気を持ちえたとき、対人関係は一気に軽いものになるそうです。
ワタシ自身が親との関りに軋轢を持ったのは、ワタシの人生に介入してきたから。
「放っておいて」
とワタシが言えなかったのは、親の思う「よくできた娘」という期待を振りほどけなかったから。
嫌われるというリスクを取らなければ、自由にはなれないんですね。
そして、そのリスクをとることができるかは、ワタシの課題でした。
いよいよ関東では、桜が満開を迎えます。
花屋さんにはかわいいチューリップたちも並んでいます。
空もやさし色合いの季節ですね。
ほんのり眠気に誘われる時期なので、電車での居眠りも楽しかったり。
人生は、連続する刹那。
このすてきな瞬間を楽しみながら、桜の枝と一緒に少しずつ成長していきたいですね
♪
ゆっくり休んで、春の夜に最高の夢を。
では、また。