暴力や嫌がらせというコミュニケーション手段しか持たない人たちがいます。
嫌なことして反応してもらうことでしか関わりを持てないかわいそうな人ですが、「貢献感」を持たせることが大切なのです。
こんばんは、ラブです。
人が変われないのは、過去を言い訳にして現状に甘んじていたいから
知り合いに、周りの人の文句ばかり言って、「やってくれない」ことばかり口にしている人がいます。
すばらしい鏡だな、と思って観察させてもらっています。
過去についても
「生育環境が良ければ、わたしはもっと良い仕事とパートナーがあったはず」
と、まさにこのブログを書くための糧になるためのような言葉をつぶやいてくれます。
ワタシ自身も親との軋轢を言い訳にして、人とのコミュニケーションに壁を作ってきました。
しかし、原因を追究し、どうしてそうなったかを検証してみても、結局現状は変わりませんでした。
結局自分を変えるのは「過去がどうであったかを追及する」ではなく、「過去の出来事をどう解釈するかを変える」ということかもしれません。
そうして自分を変化させていくとき、今までの自分そのものに「死」がやってきます。
考え方を変えるということは、今までのライフスタイルを捨てることだから。
今までと考え方もやり方も違うからこそ、先の予想ができず、多くのリスクを取らなければなりません。
その勇気を強く持つこと。そこでやっと人は変わっていけるのです。
困ったちゃんにつけるクスリは無い、という本著の見解
先に結論を言いますと、本著では「所属感」を求めて「共同体の中で特別な地位を確保したい」という思いのあまり、「人に嫌がられる行動」や「暴力」で目立とうとする困ったちゃんたちには、「専門家に相談しましょう!」という結論があります。
しかし、アドラー先生没後かなり時間の経過した日本であっても、そういう専門家は数が少なく、場所も少ないのです。
そしてそのままで放っておかれた結果、少年院や刑務所にいる人の数多くが発達障害を持っているというのが現状です。
困ったちゃんたちの現状とこじらせ方
「大人のアスペルガ―」なんて言葉をよく聞くようになりました。
人の感情を読めない人です。
昔はそれでもやっていけたのが実情ですが、手作業がオートメーション化して人間に高度なコミュニケーションスキルが求められている現在では、コミュニケーションスキルの無い人は、「困ったちゃん」ですね。
そして、さらに「困ったちゃん」がさらにこじれて「最強の困ったちゃん」になっていることも多くあります。
コミュニケーションスキルや生きていくスキルに弱さを持った人たちを「発達障害」として認める流れがあります。
困った人たちは、本人が一番困っている
実際少年院に居る多くの子どもたちには発達障害が見られています。
発達障害は、誰でも持っている普通の性質が顕著に出ただけの子たちです。
「空気を読むのが下手」とか「勘違いしやすい」とか「集中力がない」という人は、普通にいると思います。
それらが少し強めに出てしまうだけのことです。
本来なら普段生活していて困るほどの障害ではありません。
にもかかわらず、学校や社会での生活をしていくには少々なじまない部分があります。
長い時間集中しているのが著しく苦手だったり。
文字の見え方や音の聴こえ方に強い癖があったり。
友達の冗談と本気を聴き分ける力が弱かったり。
周りの人は、その人を「周りを困らせる『困ったちゃん』」と思っていますが、本当は「周りがその人を理解してくれないから本人が本当に困っている『困ったちゃん』」なんです。
学校現場の悩み
学校現場では、その子たちのケアを始めたばかりです。
専門家もいますけれど、全然ケアが足りていないのが現状です。
自力で何とかしなければ、不幸が始まっちゃうので、親も教員も必死です。
ジャイアンとのび太くんがその代表例ですが、結構本当はめんどくさいのはジャイアンです。
中学生になる頃には多くのジャイアンはその症状におさまりが出ますが、そのままな子もいます。
すると「盗んだバイクで走り出す~」となります。気をつけねばなりませぬ。
あなたの職場にも現れる「困ったさん」
ジャイアンと違って、「勉強はできるけれど、人の気持ちを読むことができない」タイプの発達障害があります。
ジャイアンは机に向かって勉強するのが嫌いなだけ。
人の気持ちは読めるので結構優しいです。
しかし、「勉強はできるけど、キモチが読めない」人はすごくめんどくさいです。
「勉強はできる」というプライドが邪魔以外の何物でもありません。
共同体意識を活用しよう、アドラー先生の言う「共同体感覚」を使うことが良いかと思います。
そのように、こじれちゃって反社会的になっちゃったジャイアンとか、やる気スイッチが常にOFFののび太だとか、そんな人たちと一緒に仕事をする場合。
特に相手の気持ちを読めないタイプの人と一緒に仕事をする場合。
子どものころから、その人たちはしつっこく叱られてきた経験が必ずあるはずです。
そんなその人の気持ちに少しだけ寄り添ってみる。
相手のこれまでの人生を想像して、「この人はこう考えているのではないか?」と思いめぐらすことが大事だとアドラー先生も言ってましたよね。
ちょっとした優しい一言をその人が言ったら、
「ありがとうございます!」
と言ってみる。
「その言葉に、救われたよ」
と、フィードバックしていく。
腹が立っているときは、「そんなこと、やってられるか!!」という感情でいっぱいになっちゃいます。
しかしやってみれば、かなり有効なんで、頭の隅っこに置いてみてください。
「あなたは、この集団に必要な人である」ということを伝えることで、少なからずその困ったさんは前進します。
他者貢献だと思って、ちょっとやってみませんか?
困ったさんが部下だった場合、叱りつけ怒鳴りつけることで、その場その場の解決をするという方法をとってしまうことが多いと思います。
しかし、それでは部下として成長してくれないですよね。
かといって「あいつはダメな奴だ。こんな部下をもって自分は不幸だ」と居酒屋で愚痴っても変わらない。
変えられること、変えられないことを直視するならば、未熟な人に対して再教育を出来る範囲で施すことは「できること」です。
そして、それによりその人が改心するかどうかは、「あなたの課題ではない」。
水飲み場まで連れていく努力はできることなので、あなたなりの「他者貢献」と思ってみるのも良いと思います。
アドラー先生は「裁判官の立場を放棄せよ」と言いますし。
眼前の「変えられるもの」を直視すべきだ、とも言っていますし。
その人がどんなにダメかをあなたが断罪したところで、あなたは幸せになれません。
厳しい話ですよね・・・・
ワタシ自身、身近な人にこの「困ったさん」がいます。
実践するのが超大変。子どもの「困ったちゃん」は可愛いけど、おとなはかわいくない。
本当にメンドクサイ。
そんなエネルギーをその人に割きたくない、と日々思います。
そう思いながらも、アドラー先生の言葉に押されて少しだけ「共同体意識」を持たせるように言葉をかけてみました。
結果は小さいけれど大成功でした。
変化の兆しが見えると、日常に光が見えます!!
「日々できるちょっとしたこと」、はアドラー先生が言うところの「変えられるもの」です。
アドラー先生の言葉を実践するのは、なかなかにしんどいですが、知っているだけじゃ、意味がないって先生も言ってますもんね。
やってみるしかありません。
頑張りましょう。
1つ頑張れたら、自分にご褒美をあげましょう。
そのご褒美は、必ず実践しましょう。
そうすれば、必ず次もがんばれます。
アドラー先生は、「専門家に任せるべきだ」と言っていますが、そうも言っていられないほど困ったさんはいますよね。
アドラー先生をみんなで超えましょう。
一日お疲れさまでした。
春とはいえ気温はやや低かったので、長湯するのも楽しいですね!
明日が終われば週末が待っています。
ゆっくり休んで、よい夢を。
では、また。