「貧乏な人とは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」
必要最低限の生活で満足する生活を送る、質素の哲学を持つウルグアイ大統領。
大統領官邸に住むことを拒み、愛車の古いワーゲン・ビートルを自ら運転して大統領専用車は使わない。
日本人が本来持っていた「足るを知る」という言葉を実践して生きる姿に、彼の人生哲学が隠されています。
こんばんは、ラブです。
質素な暮らしを愛する ウルグアイ大統領
ノーネクタイにジャケット、くたびれたジーンズといういで立ち。
首都郊外の妻が所有する小さな農場で暮らす大統領。
質素な暮らしを愛するウルグアイ東方共和国第40代大統領ホセ・ムヒカ。
彼の国連リオ会議での8分間のスピーチは、”もっとも衝撃的なスピーチ”と呼ばれるようになりました。
本当の豊かさを考えさせてくれる言葉を、これからしばらくご一緒に読み進めていただけたら、嬉しいです。
誰も注目していなかった小国の大統領
2012年のブラジルのリオ・デ・ジャネイロで国連の「持続可能な開発会議」が開催されました。
188か国および3オブザーバーから、首脳と閣僚級を含む97名。
さらに各国政府関係や国会議員など約3万人が参加し、自然と調和した人間社会の発展や貧困問題が話し合われました。
その初日、各国の首脳によるスピーチがありました。
国名のアルファベット順で最後になって現れた一人の男。
自分のスピーチが終わったら会場を後にする首脳が多く、そのとき会場には、そう多くの人はいなかったといいます。
そんな中で、彼は語り始めました。
消費社会への本音スピーチ
プレゼンターと会場の聴衆に感謝をした後、
小国の大統領は聴衆に疑問を投げかけました。
午後からずっとこの国連で話されていたのは、「持続可能な発展と世界の貧困をなくす」ことでした。
しかし、私たちの本音は何なのか、と大統領は続けます。
「私たちの幸せは、現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することなのでしょうか」
この日のホセ・ムヒカ大統領もいつものノーネクタイのシャツにジャケット。
そして国連演説らしからぬ語り口。
さらにそこには、テーマという建前に隠された本音を暴くストレートな問いかけです。
最初は、小国の大統領のスピーチに関心を示していなかった聴衆は、次第に彼の熱弁に引き込まれていきました。
我々は消費構造にコントロールされている
ホセ・ムヒカ大統領は続けます。
質問させてください。
ドイツ人が1世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てば、この惑星はどうなるのか。
息をするための酸素がどのくらい残るのでしょう。
西洋の富裕社会が持つ傲慢な消費を、世界の70億~80億の人ができると思いますか。
そんな原料がこの地球にありますか。
それとも別の議論をしなければならないのでしょうか。
なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか。
マーケット経済がマーケット社会をつくり、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで材料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。
このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で、「みんなで世界を良くしていこう」といった共存共栄な議論はできるのでしょうか。
どこまでが仲間で、どこからがライバルなのですか。
このイベントの重要性を批判しようというのではありません。
われわれの前に立つ巨大な危機問題は、環境危機ではありません。
政治的な危機問題なのです。
現在に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれず、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。
私たちは、発展するために生まれてきているわけではありません。
幸せになるためにこの地球にやってきたのです。
悪循環が始まっている
人生は短い。命より高価なものは存在しません。
ハイパー消費が世界壊しているにもかかわらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。
消費が社会のモーターになっている世界では、私たちは消費をひたすら早く、多くしなくてはなりません。
消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば”不況のお化け”がみんなの前に現れるのです。
このハイパー消費を続けるためには、商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。
ということあ、本当は10万時間持つ電球を作れるのに、
1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない、そんな社会にいるのです。
人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」という悪循環の中にわたしたちはいるのです。
これは、まぎれもなく政治問題です。
貧乏な人とは
さらに大統領は続けています。
わたしたち首脳は、この問題を別の解決の道に導かなければなりません。
石器時代に戻るのではなく、マーケットをまたコントロールすべきと言っているのです。
昔の賢明な人々、エピクロス、セネカやマイアラ民族までこんなことを言っています。
「貧乏な人とは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」
これは、この議論にとって、文化的なキーポイントだと思います。
耳が痛くなるような言葉が、結構あると思います。
しかし、みなさんには水源危機と環境危機が問題の源でないことをわかってほしいのです。
根本的な問題は、わたし達が実行した社会モデルなのです。
て、改めて見直さなければならないのは、わたし達の生活スタイルだということ。
ここまでが、リオでの国連会議で行われた”もっとも衝撃的なスピーチ”の前半です。
雇用は消費によって生まれ、消費を拡大することで、雇用と安定が確保されるシステムになっている昨今。
このままの生き方が、人類にとって幸せなのか、と問われて初めてワタシも考えました。
商品が市場で消費されることを中心に世界が回るならば、すべての人類はコマネズミのように働き続けるということですよね。
ワタシも「もっとよい物が欲しい」という欲求に従って、時間を切り売りして仕事を増やしてしまいます。
また新しいモノを買えば、それに見合ったさらにまた他のモノが欲しくなるようにできています。
このスパイラルの中でなされる「傲慢な消費」。
それは果たして幸せなのか。
立ち止まって考えたいと思います。
春の陽射しが心地よい1日でしたね。
関東は、少し汗ばむほどでした。
明日もすてきな1日になるように、ゆっくりお休みください。
では、また。