感情には、大事な原則があります。
「”快”を大切にする」ということです。
自分の心が楽しいと思うこと。
それを大切にすることは、とても大事なことです。
今回大事なことは、「”快”を見極めること」
こんばんは、ラブです。
人はみんな「幸せになりたい」と考えていますが、幸せとは、何でしょうか。
「心の状態を見る」というブッダの考えに基づくならば、幸か不幸かは”快”か”不快”かという心の状態で定義することになります。
快=喜びや楽しさを感じている心の状態が、「幸せ」です。
不快=怒りや怖れ、満たされない不安などを感じている心の状態が、「不幸」です。
原子生物には、食べる時(快)と、危険に遭遇した時(不快)とで、違う色の発光をする生き物がいるとか。
高等生物になると、分泌されるホルモンが異なります。
つまり、生き物全般が”快”とか”不快”とかの反応の世界を生きているのです。
人間も赤ちゃんは、心地よければ笑うし、気持ち悪ければ泣きますね。
人生も”快”と”不快”から成り立っています。
ただ、快でも不快でもない状態というのは、人間にとってはすぐ「退屈」、つまり「不快」になります。
欲に駆り立てられる人間には、どちらでもない状態が「不快」になるのです。
いずれにせよ、人間の心の状態は「二者択一」。
私たちは「快か不快か」という二つを揺れ動きながら進んでいるのです。
だから私たちは、幸せになりたいのならば、「快の反応」を大事にすればいいのです。
そして、不幸になりたくないならば、「不快な反応をしない」ように努めることが大事なのです。
欲を追いかけることのススメ
では、「快の反応を大事にする」とは、どういうことなのでしょうか。
生きものが”快”を感じるのは、欲求が満たされたときです。
だから、欲求を素直に、否定せずに満たしてあげることが、幸せへの近道ということになります。
たとえば、食べたいものを美味しく食べる、快適な睡眠をとる、家族と楽しく過ごす、趣味や娯楽で五感の快楽を大切にすること。
「美味しい」「楽しい」「心地よい」という反応を積極的に行おう、と考えることです。
仏教では、禁欲を奨励するものだと思われがちです。
「心を清浄にする修行」というものも、確かにあります。
それを突き詰めて、究極の安らぎにたどり着こうとすれば、快も不快も含めて、一切の反応をしてはいけません。
確かにそのような厳しい世界が、仏教にもあると著者は言います。
しかし、それは一つの方向性であっても、すべての人の共通する目標とは言えないもの。
私たちの目標は、一人ひとりが苦しみを抜けて、それぞれの幸福にたどり着く、というものです。
その方向に照らして考えること。
ブッダの教えというのは、そもそもそういう開かれた目的を掲げていたものです。
欲だって「活かしよう」
「自分が快を感じる限り、欲求も大切にしていい」と考えるなら、承認欲(認められたいという願い)も活かし方次第ということになります。
たとえば「仕事で評価されたい」「人に感謝されたい」「ほめられたい」という願いがやる気を刺激してくれるなら、その欲求を否定する理由はないと著者は言います。
だから、もしあなたの中に、やってみたい、チャレンジしてみたいことがあるなら、その欲求を大事にしていいのです。
その動機が仮に「お金を稼ぎたい」「人より上に立ちたい」「競争に勝利したい」といった「煩悩」であっても、大いにやってみることを著者は勧めています。
ただし、ここに一つの条件があります。
というのは、欲求の満足が幸せにつながるのは、本人が「快」を感じられる場合だけ。
逆に欲が膨らみすぎて「焦り」とか「不安」とか「結果が出ない」「頑張っても認められない」という不満になってしまうのなら、その欲求はいったん手放さなければなりません。
「苦(不快)を感じたら、仕切り直しなさい」というのも、ブッダの思考法です。
人の人生は常に、「欲に駆られて不快を感じている姿」と「快を大切にする姿」に分かれます。
欲求を生きるエネルギーに変えて「快」を感じる生き方は、合理的です。
ムダな欲求に手を伸ばして、振り回されて「不快」を抱える生き方は、不合理です。
誰だって、幸せに生きたいものです。
ならば、「今、快を感じているか、不快を感じているか」というセンサーをよく働かせること。
「不快」を感じたら、ブッダに倣って、不快をリセットすることを心がけましょう。
心の反応は、「心がけ」次第で、強くも弱くもなります。
もし私たちが毎日の「快」を大事にして、楽しい時は「楽しい!」、心地よい時は「心地よい!」と素直に感じ取るように努めていると、「快」はもっと鮮明にはっきりと感じられるようになります。
幸福も、心がけ次第で増やすことができるのです。
「〇〇をしない」というルールを設定するよりも、「”快”を大切にする」とすることで、気持ちよく取り組める気がしました。
「追いかけすぎるとかえって”不快”になるものは、リセットする」というルールも、面白いかもしれません。
今日も一日、おつかれさまでした。
ゆっくり休んで、良い夢を。
では、また。