人生のさまざまな場面で、自分の意志で最高の選択していくには、無意識に縛られる一般常識を外していく必要があります。
そうすると、「したい」という気持で行動ができるようになります。
自分から「したい」と思って選択し、その責任を果たすことができると、自分の気持ちを優先した選択であるために、その責任を果たすことができた時、誇り高い自尊心や大きな満足を覚えることができます。
でも、「しなければならない」と思って選択すると、達成感はありますが、責任感から解放された安堵感がまさっていて、充実度や満足度からすると「したい」で選択する方が、はるかに高くなりますね。
こんばんは、ラブです。
相手の自由は、あなたの自由でもある
昨日の例では、仕事先で私物棚の引き出しにおいて、Cさんの下の段のDさんが私物をパンパンに詰めてしまうために、Cさん(以下C)が引き出しを使うたびにDさん(以下D)の引き出しがつられて開いていました。
ムカムカし、「Dは、仕事先の常識がなっていない!」と怒るCですが、相手に常識を求めているということは、自分にも常識を求めているということ。
「一般常識として、人として相手の引き出しくらい閉めてあげるべき!」
とCは自分自身にも厳しく常識を求めていたことに気づきます。
そこで一般常識は横に置いておいて、それよりも「Dの自由」を尊重することにしました。
引き出しをいっぱいにするのは、彼の自由です。そして自由には責任が伴います。
だから、Dの引き出しが開いてしまっても、そのままにすることにしました。
相手の自由を認めることで、一般常識によって生じる”罪悪感”を感じることなく行動でき、それによってDの行動を改善することができたのです。
冷静に考えると、Cには本来まったく責任が無いことであるにもかかわらず、罪の意識を感じてしまっていたこと。
このように、無意識に一般常識で自分を縛ると、無用の罪悪感を覚えてしまいます。
そのために、自分ではしたくないこと、あるいは自分はまったくする責任がないことなのに「腹を立てながら、それをせざるを得ない」状況を作ってしまいます。
日常で我慢したり、感情を爆発させたりするのは、ほとんどがこのパターンです。
こんなとき「私の自由」「相手の自由」を認めると、こうなります。
・Dが引き出しに私物をいっぱい詰め込むことは自由である
・それによって生じる問題は、Dの責任である
・Cに一切責任は無い
・Cにとっての「私の自由」は、罪悪感なしに、引き出しを放置してよい
という論理になります。
自分と相手の自由を認め、自分の気持ちや感情を優先し、自分の責任を見極め、そのせきにんを適切に把握すること。
それによってあなたは、「自信」をさらに引き寄せることができるのです。
自分の問題だけに焦点を当てて、ラクに主張する
言い争いがエスカレートする原因とは?
もちろんこのケースでは、CとDが話し合って解決するのが理想です。
でも、多くの人が争いになることを恐れています。
実際に話し合おうとしても、話を聞こうとしない相手もいます。
話し合う時、自分の中に敵意があれば、相手は必ずそれを察知します。
自分では「話し合おう」としているつもりでも、そのときすでにあなたが過剰的になっていれば、無意識に攻撃的な態度をとっています。
相手は、それに気づいて身構え、話し合うどころではなくなり、話し合いは成立しません。
それどころか、感情的になっている勢いでお互いが自分を主張すれば、争いはいっそう激化していくでしょう。
争いになりにくい言い方のヒント
多くの人が他人と争いになることを恐れています。
では、たとえばCがDにこんな言い方をしたらどうでしょうか。
C「ちょっと話をしてもいいかな」
D「なんだよ」
C「引き出しのことなんだけど」
D「何だよ、引き出しがどうしたっていうんだよ」
C「僕が引き出しを開けると、いつも君の引き出しも一緒に開いてしまうんだ」
D「(ふてくされて)・・・」
C「そのたびに閉めていたけど、毎回だと、僕もだんだんイヤになるんだ」
D「だったら、閉めなきゃいいんだよ」
C「そうなんだ。それを君に伝えようと思っていたんだ」
D「(怒った口調で)じゃあ、そうすりゃいいじゃないか」
C「うん、そうさせてもらうね。話を聞いてくれてありがとう」
こんな話し方ができるのは、Cが次のような意識でいたからです。
・引き出しに私物をたくさん積めるのは、Dの自由
・問題になっているのは、「引き出し」のことである
・(厳密にいえば)Cが自分の引き出しを引いたとき、Dの引き出しが開くのは、Cに責任は無い
・Dの引き出しがそうなるのは、Dの責任である
こう解釈すると、C自身にとって問題なのは、「私がDの引き出しが開くのを後始末していた」ことだけになります。
Dに一般常識を求めなければ、あとはDの自由です。
だから、Cが自分にとっての問題から解放されるためには、単に
「Dの引き出しがついてくるおは、私の責任ではないから、罪悪感なしに、引き出しは放置しておこう」
とすればよいのです。
あとは、それをそのまま、相手に素直な気持ちで伝えるだけなのです。
自分の価値を高めるために行動する
結果だけに焦点を当てない
自分が傷ついたり、争いになるのを嫌がって我慢していると、どんな気持ちでしょうか。
決して寛大に相手を許しているわけではありませんね。
怖いから我慢している状態は、「何とも言えない無力な私」をインプットすることになるのです。
多くの人は、傷つけあうことを恐れるのは、「結果」の方に焦点を当てすぎているから。
主張するからには、「何が何でも」自分の主張を通さなければならないと思い込んでいるからです。
また、最後まで主張を貫いて主張を通さない限りは満足を得られない、という幻想を抱いているからです。
これは勘違いであり、この点を「自分を大切にしている」と間違って解釈する人がいます。
自分中心に考えるならば、自分のために主張はしますが、必ずにも自分の望む結果を得ることは目標とはしていません。
なぜなら、仮に争って最終的に成功したとしても、人を傷つけてうまくいったとしても、それは決して自分の誇りや自信にはつながらないからです。
まず、自分を愛しましょう
何かにつけてごねる人をよく観察してみると、わかるかもしれません。
彼らは、自分の要求が通るまで粘りますね。
でも、どんな手段を用いても、最期に成功することで満足できるなら、それを繰り返せば繰り返すほど、満足度は高くなっていくはずです。
満足度が高ければ、ごねる人はどんどん満足してえびす顔になり、さらには聖人君子のように穏やかな笑顔をたたえているはずでしょうが、実際は違いますよね。
ごねればごねるほど、表情にはありありと不満が増大しています。
自分を中心に考える、ということはまずは「あなた自身を愛しましょう」ということが基準です。
自分のこだわりや気持ちを解消するために言う。
そこに自分の価値を見出します。
こうすることが「自信」を育てます。
大きなことに挑戦する必要はありません。
日常のささやかな場面で
・私のこだわりをひきずらないために表現する
・私の価値を高めるために表現する
・私の価値を高めるために行動する
という視点に立って、これを目標にして思いを伝えたり行動できたりすれば、仮に自分の主張が通らなくても、”言えた自分、行動できた自分”を誇らしく感じます。
そのときの満足感は、何物にも代えがたいものとなるのです。
誰のためでもなく、「自分のために」行動する。
そう思うだけで、ワクワクしてきました。
「誰かのために、我慢する」「一般常識的にそうだから、こうする」
ということが、私たちの生活の中ではとても多いし、私たちを縛り付けるし、そういう発想は私たちの元気と自由を奪うのかもしれません。
お疲れさまでした。週末になりますね。
ちょっとは休めるといいですね。
では、また。