3人以上、人が集まるところには、なるべく行かない。
著者が決めていることです。
体質的にアルコールを受け付けず、早寝早起きリズムを守りたいという理由もあります。
おだやかな晩ごはんを食べ、本を読んだり考え事をして一人で夜を過ごし、特別なこともなく、静かに眠りにつく夜が多いそうです。
しかし、付き合いが悪い本質的な理由は、大勢の人が苦手ということと、さらに言えば人間が生きる基本条件は孤独だと思っているから。
基本条件は孤独
人は人とかかわりあって生きていきますが、恋人も家族も100%ぴったり、1つにはなっていないものです。
何を考えるかで行動も生き方も決まりますが、思考というのは、誰かと一緒にはできません。
感じる、思う、考える、選ぶ、決める・・・人生の根っことなるこうしたことは、一人でしかできない。
この事実をいさぎよく認めねばならないと思うのです。
だから著者は、孤独であることを基本条件で受け入れています。
もちろん、一人でいることが心地よいタイプでも、孤独はいつも味方してくれるわけではありません。
寂しい、怖い、心細いといった恐怖心に囚われることもあります。
とくに仕事は、孤独との闘いのようなもの。
1対100でも世界と対峙する覚悟がなければ、思ったようなものは創り上げられません。
たとえ、たった一人で批判や反対意見を浴びせられるとしても、ひるまずに受け止めなければいけない場面もあります。
みんなの気持ちを慮って意見を聞き、和気あいあいと話し合ってよい企画が形になるなど、現実にはあり得ない話です。
だから、「一人でがんばらなければいけないとは、なんて自分は不幸だろう」などと悲劇の主人公に思ったりしないと著者は言います。
人は孤独であらねばならないと承知し、そのうえで孤独とどう向き合うかを考えたいからです。
この姿勢は仕事だけでなく、暮らしのすべてに共通しています。
「寂しさや孤独をどうとらえるのか?」
これは人生に大きく影響する問いかけではないでしょうか?
著者はまた、「一人になれるか?」と自分にしばしば質問しています。
若いころ、外国で一人になったとき、孤独と真正面から向き合うことの厳しさを知り、そこから大きな学びを得たと言います。
だから今でも「一人に慣れる強さと潔さを保て」と自分に言い聞かせているのかもしれません。
時として、人と一切のつながりを断ち、「変わったやつ」「随分つきあいが悪いな」と批判されようと、仲間外れにされようと、平気で受け流す。
そうすると不思議なことに、かえって本物のコミュニケーションがうまれまるそうでいす。
言いにくいことを、お酒の入った席で言おうとお互いに思わないし、だからこそ、正面から向き合った会話の機会が持てるのです。
こんな意見を言ったら、ひとからひんしゅくを買うのではないか、うっとおしく思われるのでは?
そんな思いで「なんでもいいです」と口にするクセは、一所懸命に努力して直してみること。
孤独を受けいれ、自分の意見、自分の立場を貫くこと。
軋轢や波風を恐れない強さを持つこと。
真っ暗闇の中を、たった一人で毅然と歩いていく強さがあってこそ、すれ違う人とも深くかかわれるのです。
じんわりやさしく
著者は昔、扁桃腺が弱くて、良く熱を出して学校を休んでいました。
小学2年生のとき、いつものように熱を出し、家で蒲団にくるまっていました。
両親は働いていて、姉も出かけていて、著者はひとりぼっちです。
起き上がっても熱っぽい身体はだるく、寂しさに本を読んでも空想しても、気持がまぎれなくなるのでした。
そんなある日、一人で寝ていると、玄関のチャイムが鳴りました。
担任の先生です。
学校一怖い男の先生で、教室にいても近寄りがたく厳しいのに、学校の外だと、なおさらいかめしく思えました。
ところが、先生のかたわらで、鳥の声がします。メジロでした。
「松浦君、体の具合はどうだ。
個の鳥をしばらく君にあずけるから、少しよくなったら、これをよく読んで世話をしなさい」
差し出された紙には、先生の角ばった文字で、餌や観ず、ふんの掃除など世話の方法がきちんと記されていました。
学校にいけない子どもが、家に一人ではどんなに寂しくつまらなかろうと心配した先生は、自分が大切に飼っていた小鳥を、お見舞いとして持ってきてくれたのです。
子どもだった著者にとって、メジロのお見舞いは、熱があることすら忘れるくらい、心躍ることでした。
ちっちゃくて、うぐいす餅みたいなきれいな緑色をしていて、目の周りが白くふちどられ、全体はまん丸の体つき。
テレビはつまらないのに、メジロの観察は、幼い著者を惹きつけてやまなかったのです。
ちょっと具合がよくなると、ちゃんと世話をして絵をかきました。
やがて熱が下がって学校に行けるようになると、著者は先生に絵をプレゼントし、その日の夕方、メジロは先生の家に引き取られて帰っていきました。
特別な言葉は無くても、自分が大切にしている小鳥をお見舞いにあずけてくれた。
その時の先生のやさしさは、今でもじんわりと、著者のこころを温めてくれます。
人はいやなことは意外に忘れてしまうものですが、親切ややさしさの思い出は、色あせることがありません。
先生に直接、あの時と同じやさしさを返すというよりは、自分も誰かに同じように親切にしてあげたい。
受けた親切を別の人に返して、循環させる、それを毎日繰り返すこと。
みんながそうしていれば、お金や素晴らしい環境を得るのとは別のやり方で、幸せも見つけられるような気がします。
また、本当の親切とは、無償のものであり、相手の立場や心に寄り添ったものでありたいものですね。
今週もお疲れさまでした。
ゆっくり休んでくださいね。
では、また。