心の中で、決めつけたり、思い込んだり、一方的な期待・要求してしまうことがあります。
そうした余計な判断は、私たちに悩みを作り出してしまうのです。
本日のキーワードは、「判断しないこと」です。
こんばんは、ラブです。
心の状態を理解する
前回は、心の反応を止めるためには、まず自分の心の状態を理解することが大事である、ということを勉強しました。
悩みの原因は、ほとんどが心の反応です。
心の反応の背景には、”求める心”や欲求があります。
欲求は、七つあって、生存欲、睡眠欲、食欲、性欲、怠惰欲、歓楽欲、承認欲があると著者はまとめています。
心の状態を良く理解するには、悩みに対して言葉で確認し、感覚を意識し、貪欲・怒り・妄想の3つに分類すること。
こうした理解によって、苦しみを作り出しているムダな反応を解消していくのです。
人が悩みを抜けられないのは、「自分の心が見えていない」からです。
モヤモヤのままか抱えていては、いつまでも消え去ることなく残ってしまいます。
そのモヤモヤが「貪欲・怒り・妄想」のどれなのか観察して分類してみるだけでも、モヤモヤは晴れていきます。
今に伝わる仏教は、これらの煩悩を「戒めなさい」と説きますが、本著ではブッダが生きていたころに倣い、煩悩を「心の状態を理解するためのツール」と考えています。
判断があなたを苦しくさせる
ムダな判断?
人が悩んでしまう理由の一つに、「判断しすぎる心」があると著者は述べています。
人生に生きている値打ちがあるとか、この仕事に意味があるとかないとか、彼と比べて自分が優れているとか劣っているとか・・・。
そういった「決めつけ」や「思い込み」。
「どうせ自分なんか」という自虐も判断だといいます。
「失敗した」「ついてない」「最悪」という失望や落胆も判断です。
「上手くいかないのでは?」という尻込みも、「あの人、嫌い。苦手」といった人物評も判断です。
これらの判断が、不満、憂鬱、心配事など、たくさんの悩みを作り出します。
確かに、これらの「ムダな判断」をし無くなれば、心はとても軽くなりそうですね。
「いい・悪い」「好き・嫌い」をやめる
たとえば、こんな人がいます。
占い好きで、運勢がいい・悪いといつも判断している。
噂好きで、「あの人はこんな人らしい」と詮索している。
「自分は絶対に正しい」と思い込んでいる人もいます。
人の意見を聞かずに、自己主張ばかりする人も。
親か、上司か、はた迷惑な友人か、こういう人はあなたの周りにもいるのではないでしょうか。
「判断」は、さらに自分の性格にも影響します。
「こうでなければ」という思い込みは「潔癖さ」や「完璧主義」「頑張りすぎ」を作り出します。
「自分はダメな人間だ」という自己否定のレッテルにもなります。
「どうせ失敗する」「わたしにはそれだけの能力がない」と、一人で「結論を出してしまっている」こともあります。
これらはみんな「判断」です。
判断しすぎることは、私たちの人生を支配してしまうのです。
「わかった気分」が楽しいから
私たちは、自分や他人や人生の目的、生きることの意味をなぜあれこれと判断したがるのでしょうか。
1つは、判断すること自体が「気持ち良い」からです。
結論が出せた気がして安心できるのです。
もう1つの理由は、「判断することで認められた気分になる」ことでしょう。
誰かと喧嘩した後に、友達に電話して、「あなたは間違っていない」とお墨付きを得ようとしたりすることがあります。
「やっぱり自分が正しかったのだ」と思いたいがための、承認欲によるものです。
だからみんな、判断することに夢中なのです。
判断は、ただ気持ち良いだけなら問題ないのかもしれません。
しかし、その思いに執着しすぎると、自分か誰かが、激しく苦しめられるようになります。
本当はみんなサラサラとした小川のような心を持っている
人が苦しみを感じる時、その心には必ず「執着」があります。
本来心というものは、サラサラと流れ続ける小川のように、苦しみを残さないはずなのです。
それなのに、執着ゆえに滞り、苦しみを生んでいるのです。
苦しんでいるのが自分であれ、相手であれ、誰かが苦しんでいるのなら、何かが間違っています。
「このままではいけないのだ」と目を覚ますこと。
ブッダの考え方に照らすと、こう考えられます。
「かなわなかった過去の願い」が、苦しみを生んでいる。
「失敗した」(こんなはずではない)という判断が、苦しみを生んでいる。
「相手はこうでなければ」という期待・要求が、苦しみを生んでいる。
これらの「執着」を手放さなければ、自分も相手も苦しみ続けてしまいます。
「ない」ものを「ある」と勘違いしないために
「判断」ー決めつけ、思い込み、一方的な期待・要求ーは、「執着」の一種で著者によれば「心のビョーキ」です。
もともとその「判断」は、頭の中にあったものではなく、親や先生、友達や世間の情報などで、「こうでなければならない」と学習したものです。
確かに、仕事や生活、将来の選択で必要な判断はあります。
「決める」ということで、見通しが良くなることもあります。
しかし、どんな判断であれ「執着」してしまうと、苦しみが生まれます。
というのは、現実は常に「無常」-変わりゆくものーだからです。
昔の願いが、かなわなかったという事実があるとすれば、その「願い」はもはや存在しない「妄想」なのです。
「執着」しているから、今なお見えるような気がしています。
でも、本当は存在しないもの。
「こうでなければ」という、自分の人生や相手への期待も、それだけならただの「判断」。
それは、頭の中にしか存在しないから、「妄想」なのです。
妄想に過ぎない「判断」に執着して、今なお、自分や相手を苦しめているーそれが真実の姿です。
もう、いい加減にワタシも自由になりたくなりました・・・。
仏教では、本来「ない」ものを「ある」と思ってしまうことを”顚倒”と呼びます。
「勘違い」のことです。
誰かを苦しめている「こうでなければ」という判断、期待は「勘違い」です。
「勘違い」は抜けるに限ります。
目の前の現実の方を中心にすえて、よく理解するように努めて、みんなが幸せに生きていけるような生活を1からつくっていくことが正解なのです。
判断から抜け出す方法
”慢”という心のビョーキに気を付ける
人を苦しめる「判断」には、「自分はえらい」「正しい」「優れている(はずだ)」と肯定しすぎる思いもあります。
仏教ではこうした心理状態を”慢”と呼びます。
いっときは自分を肯定できる気がして心地よいのですが、高慢、傲慢、プライド、優越感といった思いは、結局不満やうぬぼれゆえの失敗を招きます。
本当は「自分も他人も判断しない」ことが、1番なのです。
そうすれば、心を別の喜び・満足に使えるからです。
素直でラクな自分になっていけます。
基準は「役立つかどうか」でいい
”慢”は、「自分の勝ちにこだわる心」。
実は劣等感や「自信がない」という想いも”慢”にあたります。
人はみんな、「自分が考えることは正しい」と、心のどこかで思っています。
しかし、その判断が正しいのか、間違っているのかは、一体どうやって「判断」するのでしょうか。
ブッダの言葉に、その基準があります。
それは、「真実であり、有益である(役に立つ)」こと。
「真実である」ことは、世間では通せないこともよくあります。
しかし、「有益である(役に立つ)」というのなら、どんな世界でも大切な判断基準になります。
例えば仕事なら、「利益が上がる」「働きやすい環境になる」「業務が円滑に進む」ような判断が正しいことになります。
大事なのは「役に立つか」という視点です。
「自分は正しい」という考えから離れる
「自分は正しい」という判断は、自分には正しく見えますが、ブッダの理解に照らせば正しいと言えません。
むしろ「自分は正しい」と判断してしまった時点で、その判断は「間違ったもの」
になってしまいます。
一人一人異なる立場や体験や脳を持っている以上、かならず見解の違いは出てきます。
どのような判断も、個人の頭に浮かぶ想念ー三毒で言うなら「妄想」-にすぎないのです。
それなのに、「自分は正しい」と執着してしまったら、その時点で”慢”が生まれます。
仏教が目指す「正しい判断」とは、逆説的ではありますが、「正しいと判断しない」理解です。
「つい判断してしまう」を卒業する
ムダな判断から卒業する実践です
①「あ、判断した」という気づきの言葉
シンプルに「判断に気づく」ことです。
「今日はついてない」「失敗したかも」「あの人嫌い」「自分はダメ人間」などといった思いがよぎったときは、「あ、判断した」と気づいてください。
だれかを好きか嫌いか、いい人か悪い人かと「品定め」したら、「あ、判断した」と気づきます。
よく友達や家族の間で誰かの「人物評」をするとき、そんなときは互いに「まぁ、判断に過ぎないけどね」といった”気づきの言葉”をいれると良いかもしれません。
「いい人と判断するのもいけないの?」と思うかもしれません。
一概には言えませんが、状況が変われば否定的な判断になることはよくあります。
そもそも私たちに誰かを良いとか悪いとか判断する「資格」があるでしょうか。
ブッダは「それは必要ない判断である」と述べています。
②「自分は自分」と考える
判断は、「心のクセ」のようなものです。
世間には、比べること、評価すること、あれこれ詮索することが大好きな人が大勢います。
噂話なんて、「判断」のオンパレードです。
でも「みんな判断しているから、わたしだって」と考えると、自分も「判断大好き人間」になってしまいます。
しかし、その余計な判断こそが苦しみを生んでいるんです。
これ以上
悩みを増やしたくないと願うなら、「判断」から足を洗うに限ります。
③いっそのこと「素直になる」
もう一つ大切なのは「素直になる」ことです。
自分が1番ラクになれるからです。
”慢”にとらわれた人にとって、「自分の正しさ」を手放すことは、自分を否定することになります。
だから、人はなかなか素直になれません。
このとき仏教を活かすなら「方向性を見よう」ということになるでしょう。
「方向性を見る」とは、仏教のなかの「正しい思考」と呼ばれる教えの一要素です。
自分のこれからの方向を見ること。
そして、「自分は正しい」と思い続けたいのか、
正しさにこだわらない「素直な自分」を目指したいのか。
率直に言って、「自分は正しい」という思いなんて、あまりに小さな自己満足に過ぎません。
その思いがだれを幸せにしてくれるのでしょう。
「正しい自分」でいるより「素直な自分」でいる方が、魅力的だと思いませんか?
人の話をよく聞けること、ものわかりがよいこと、心を開いて話し合えること、そういう自分の方が幸せになれると思うのですが、いかがでしょうか。
「素直になってみよう」と考えてみましょう。
それだけでも、心が開かれたように感じるはずです。
いろいろな悩みをぐちゃぐちゃと持ち続けてしまうタイプのワタシですが、「それは妄想だったのだ!」「判断を手放していいんだ!」と断言してもらうことで、キモチが軽くなりました。
明日は、少しは休めますか?
優しい夢が見られますように。
では、また。