困った相手っていますよね。どう関わっていいか、実に毎日悩みの種になります。
ブッダが言うには、問題は「相手がどうであるか」ではなく、「自分が相手にどんな心を向けるか」ということ。
それを確立することで、人間関係で苦しまない生き方ができるとか。
今回のキーワードは、「心は無常」です。
こんばんは、ラブです。
感情で反応しない練習をしました。
こころがけの次は、「相手とどう関わるか」です。
「関わり方」は「相手にどんな心を向けるか」ということ。
ブッダの考え方として、「つねに自分自身の心の持ち方、考え方を問う」ところがあります。
「相手に向ける心を確立する」ことで、人間関係で苦しまない生き方が可能になるのです。
相手のことを「判断」しない
最初に、相手との関わり方の原理原則をまとめましょう。
①相手のことは「判断」しない
②過去は「忘れる」
③相手を「新しい人」と考える
④「理解し合う」ことを目的とする
⑤「関わりのゴール」を見る」
「相手を判断しない」は、前に学んだ「判断しない」の実践です。
ネガティブな感情にあるとき、人は相手のことを「判断」したくなります。
「嫌な人だ」「勝手だな」「本当にやる気が無いんだから」「また同じことを繰り返しているな」「もう、離婚してやる」「今度こそ、絶縁したい」など。
結論を出したくなるのです。
その判断には、一理あるかもしれませんが、ちょっと危険でもあります。
それは、この判断が自分自身の承認欲、つまり”慢”とつながっているからです。
相手に「ダメ出し」をすること。
「ああ、困った」と嘆いて見せること。
そのことで、「自分を正しい」と確認したり、相手への優越感を感じていたりするのです。
心の内側を見つめてクリアにしていくことを大事にするならば、「しなくていい判断は、しないほうがいい」。
大事なのは「心に苦悩を貯めない」ということです。
どんな幸福感も苦悩という反応によって、いつも台無しになってしまうからです。
だから、「あの人のここはダメだ」などと判断し続けることは、自分へのマイナスになってしまいます。
そしてその判断は、相手にとっても不幸になります。
お互いに理解し合える可能性が減ってしまうからです。
今は難しくても、わかりあう可能性はいつも残っているのです。
身近な人、大切な人であるほど、余計は判断はしないに限るのです。
記憶を相手にしない
もう一つ大事なことは、過去を引きずらないことです。
過去の記憶はなかなか消えず、相手にもその記憶を通して向き合ってしまいがちです。
ただ、その記憶が「またか」という反応とともに新しい怒りを誘発します。
仏教的に「過去を引きずる」ということは、「記憶に反応している」という状態です。
たとえば相手と争ったとします。
最初の時点の「怒り」は「相手」に向かっているかもしれません。
でも、その場を離れても相手のことが頭から離れず、イライラしているならば、その原因は「相手」ではなく、自分の中の「記憶」です。
過去を思い出して、「記憶に反応して、新しい怒りを生んでいるのです。
もし、嫌な記憶がよみがえったら、その記憶への「自分の反応」を見ること。
相手と別れてもなお腹が立っているときは、「これはただの記憶」「反応している自分がいる(相手は関係ない)」と冷静に理解して、感情を鎮めるように心がけることが大事です。
相手はいつでも「初めて会った人」
仏教では、人も心も”無常”-うつろいゆくものーととらえます。
心は1日に7万個もの想念を思い浮かべるとか。
約1.2秒で1個の思いが浮かぶのです。
心とはそれ位めぐるましい「無常のもの」なのです。
心が無常なら、当然人も無常です。
私たちは、自分も相手も「昨日と同じ人物」だと思っています。
でも
でも実際は、背恰好や名前、住所は同じでも、その人は別人です。
だって「心は変わっているから」。
同じだと思うのは、関係を続けるための暗黙のルールみたいなもので、本当は「今日は別の心の、別の人間」です。
自分自身さえコロコロ変わり続けるもの。相手も同じです。
こうした理解に立つと、相手はつねに「新しい人」です。
「過去にあんなことをした人」「こんなことを言われた相手だ」というのは、こちらの「執着」。
本当は「まったく新しい人として向き合う」ことだって、選べるのです。
その人と「一緒に理解」する
もう一つ大事なのが、「相手と理解し合う」ことを最終ゴールに据えることです。
人と向き合う時に大事なことは「反応しないこと」。
でもそれは、無関心や我慢ではありません。
たまに、相手から苦痛を強いられていても「我慢している」人がいます。
「相手に迷惑をかけてはいけない」「関係を壊したくない」「雰囲気を悪くしたくない」とやさしさや配慮から、じっと耐えているのです。
しかし、「我慢する」ことは、正確には「自分の怒りを抑え込んでいる」状態。
ストレスが溜まって、どんどん苦しくなり、鬱にもなりかねません。
そんな時には「心の前半分を相手への理解へ、後ろ半分は自分の反応を見る」ことに努めて、なんとか反応したがる心に負けないようにしたいものです。
もう一つ大事なのは、「理解し合うことー理解を共有することーが大事」という前提に立っておくこと。
「わたしはこう感じている」「こう考えている」ことを伝えて理解してもらうことを目的にすることです。
もし、相手が理解しようとしない、聞こうとしないのならば、もはや関わる意味のない相手なのかもしれません。
どのような関係でも、一方的に苦痛に耐えなければならない関係は、存在しないはずだからです。
「こういうことは止めてほしい」と思うなら「やめてほしい」と伝えることです。
そこまでが自分にできること。
それを相手がどう受け止めるかは、相手の領域です。
理解し合うには、時間がかかるものです。
「いつか分かり合える(わかったくれる)」という楽観的信頼をもって向き合うことです。
そう相手を信頼することは、相手は関係なくこちらの”選択”です。
人生の方向性
仏教では、”方向性”をよく考えます。
自分がどんな人生を目指すのか、という方向性。
相手とどうかかわっていくのか、という方向性です。
相手と分かり合うことも、一つの方向性になります。
自分の気持ちを理解してもらうことも、方向性です。
方向性としてあってはならないのが、相手と苦しめ合うこと、憎しみ合うことです。
そのような関係は、人生の目的にはなりませんよね。
人はときに、苦しめ合う関係をずっと繰り返します。
関わり合うことの目的を考えずに、ただ自分の期待や思惑、都合、要求、過去へのこだわりに執着して、「正しいのは自分、間違っているのは相手」といつまでも思い続けるのです。
ここでも、ブッダが語った「執着こそが苦しみを生んでいる」という言葉に戻るべきです。
実感として、「苦しめ合っている」という事実に目を覚ますのです。
苦しめ合うために関わっているのではないのです。
理解し合うために、お互いの幸せのために、関わっているのです。
困った相手への認識を変えるということは、自分自身が変わるということですね。
たくさんの勇気が必要な選択だと思いました。
でも、「困った相手との困った関係」を持ち続けることで、一番困るのは自分自身。
頭の中にある「妄想」である「困った相手」を憎んでしまうことで、自分自身が疲れ果てる必要はないですから。
「いつか、分かり合えるかも」。
そんなスタンスを”選択”するには勇気がいります。
でも、その方が自分がシアワセになれるから、やってみる価値はありそうです。
恨みが頭をよぎるのに気づいたら、「これは、妄想だから・・」と言い聞かせてみたいと思います。
今日もおつかれさまでした。
すてきな夢を。
では、また。