良いことをした瞬間に、何だかよくわからない方向からハッピーなことが引き寄せられることってありませんか?
この”何か”の力というのは、「人に与える」ことによって引き寄せが可能であるようなのです。
あなたの行動が、呼び込むもの
ナポレオン・ヒルが言う『黄金律』(=自分がしてほしいと思うことは、率先して他人にもそうしてあげること)の精神に従うことは、単に富を得ることだけでなく、そのほかすべての幸福と深く関係があります。
仕事などで他人に奉仕すれば、最終的にはそれに見合う報酬が待っています。
地上の富は、あなたに集められる日を今や遅しと待っています。
”何か”の大きな力は、あなたの行動を見て、それにふさわしい報酬を与えようと待ちかまえているのです。
これはあらゆる時代のあらゆる賢人たちによって言われていることです。
私たちはそれを実際の人生から学んでいくことができます。
たとえ黄金の皿を使って食事ができるからと言って、それが必ずしも裕福だとは言えないでしょう。
私たちは、自分なりの基準で裕福でいられれば、それ以上のものは求めません。
それがたとえホームレスであっても、大地の美しさを味わい、流れゆく白い雲や、七色の虹、輝く星を楽しむことができます。
富の可能性を見る者のもとに富は来る
著者は農場で育ちました。
一応の土地があり、収穫があり、家畜は草を食べていました。
しかし、有能な農場主から見れば、とても農場と呼べるものではありませんでした。
著者の実家の土地の多くは耕されていませんでした。
税金がかかるばかりで、食べたり売ったりする作物を少しも生産していなかったのです。
技術も資本もありませんでした。
それでも著者は、どうして可能性のある土地を、使いもせずに放っておいたのか、見当もつきません。
10エーカーの土地でそれまでの100エーカー分の収益を上げている農業技術についても、著者は聞いたことがありました。
かれのように、自分の富の可能性を見て、それを引き出せる人間もいるのです。
ここで注意すべきなのは、この農場主の基本的な富の可能性は、土地の中にあったわけではないことです。
それはむしろ彼の心の中にありました。
つまり、優れた農場技術を学んで、それを使い来ないしていく意志に中に富の可能性があったわけです。
一昔前の資料によると、アフリカのある地域では9人の人間を養う作物を作るのに、8人の人間が必要でした。
しかし幸いなことに、優れた農業技術と優れた農業機械が全世界に広まりつつあります。
8人の農夫がトラクターを操縦して、選りすぐった種をまき、化学肥料を使えば、800人、いや8000人の食料を作り出していくようになるでしょう。
・・・アメリカ的な発想ですが。
でも、彼らが本当に裕福になれるでしょうか?
今日のアフリカの事情を見ていればわかりますね。
彼らが真に裕福になるために必要なものは、他人が成し遂げたものをそのもまま受け取るのではなく、自分たちの力で豊かになることができるのだ、という考え方をもってそれを実行することです。
富は、常に心の中で始まるものなのです。
富はいつでも、富の可能性に着目する人の心から生まれます。
これは農場に限らず、どのような財の形成でも同じです。
だから、成功したい、富を得たいと思ったら、あなたの心の中を探しましょう。
心の中には、どんな成功をしたいか、どんな富をどれだけほしいか、ということだけがあるのではありません。
それを手に入れるチャンスそのものが、アイディアという形で、必ずあなたの心の中に眠っています。
”何か”に気づいた家主の例
著者は繰り返し、「心の富とは、心の平安」と述べています。
この原則は重要です。
ある不動産を管理している男がいました。
金銭的にはとても裕福でしたが、心の平安は保てておらず、しかもそのことに気づいていませんでした。
しかしあるとき、仕事上の原則を捨て、人間に対する優しさの原則に切り替えたことで人生が変わりました。
それまで彼は、人へのやさしさにまるで無関心でした。
彼は自分の持っている安い家を貸して利益を得ていました。
ある店子には老夫婦がいて、しばらく彼らの家賃が滞っていました。
家主である彼の商売の原則からするとそれは許しがたいことだったので、弁護士を通じて立ち退きを命じることにしました。
家主はとある弁護士に必要な手続きを依頼しました。
が、弁護士がなかなか立ち退き終了の報告をしません。
弁護士と話をしたところ、話の内容はこのようなものでした。
家賃について話をしに行った弁護士は、ドアを叩きましたが、返事がありませんでした。
そっと中をのぞくと、何もない部屋の中でベッドからそっとおばあさんが起き出しました。
ベッドの横にいるおじいさんと二人で祈りを捧げていました。
その二人の祈りはこんな内容でした。
おばあさんが病気でどうしようもないこと。
3人の息子が全員死んでしまったこと。
2人で生きてきたのに老人ホームに入るのはつらいということ。
しかし周囲に迷惑をかけすぎてきたこと。
そして、迷惑をかけたその人(家主)に神のお恵みがありますように、と。
それを聞いて涙した弁護士は、家主の腕をつかんで、自分が老夫婦の家賃を払うことを申し出ました。
しかし、家主は自分こそがその老夫婦の家賃を請け負うことを申し出、さらに10ドルを弁護士に渡して老夫婦にこっそり食料を届けることを頼みました。
与えられるものは限りなく与え、とるものは決まった分で済ます
驚くことにこの家主は、こうして自分の生活パターンを破ったその日から、どういうわけか富が集まるようになったのです。
取ることをやめて、与えることにしたその日からでした。
もちろん、自分の時間や資産を与えるのには限りがあります。
あなたの最初の義務は、あなた自身を助けることです。
そしてついでに他人を助けることです。
この法則を正しく運用すれば、驚くほどすべてがうまくいく、とナポレオン・ヒルは言います。
例えば先ほどの家主は、実はそれまでにも慈善を行ったことはありました。
しかしそれはお膳立ての整った慈善でした。
ときに、感謝状が贈られたりするような。
本人と本人の仕事の良い宣伝になったり、それが目的だったりする慈善です。
そういう効果が約束されていなければ、与えるという行為は、それまで彼にとって無駄としか考えられなかったのです。
それがある日、彼は自分より大きな”何か”が自分の運命を動かしているのを発見したのです。
彼の人生はすべてが変わってしまったのでした。
この後、ちょっとだけキリスト教系の話になりますので、割愛です。
黄金律とは、キリストの言葉からの引用でもあるからです。
ただ、「人に対して何かをしていくことは、どうやら”何か大きな力”を味方につけることなのだ、と成功者たちは知っている」という話です。
目先の小さな報酬のための”お膳立てされた”慈善ではない、本当の心遣いは、どうやら”何か”が見ているようだ、ということです。
そして、他の人への慈善の前に、まずは自分を大切にする義務がある、ということ。
うっかりすると、相手のためにすべてを投げ出してしまうこともあるかもしれません。
しかし、まず自分を大切にしてから、相手に惜しみなく愛情を注ぐこと。
互いに幸せになっていく道なのかもしれないと思いました。
今日は少しは休めましたか?
あたたかくして、素敵な夢を。
では、また。