著者はホスピス病院の病棟長として、末期の患者さんたちを3500人以上看取ってきました。
死を考えることは、生を考えること。
「自分にとって何がほんとうの幸せなのか」をびっくりするくらい根本的に見直すことができます。ものごとを見る角度が変わります。
ワタシは無知なのえ、人生の最終段階を迎えた患者さんの本当の姿は、苦しいものだと勝手に想像していました。
しかし著者によると、それを受け入れていくことができる患者さんたちの方が多いそうです。
死を受け入れること。
その中でどんな言葉。
それらを著者は患者さんに寄り添う優しい視点で綴っています。
年齢を重ね、病気で亡くなる方もいれば、幼いお子さんを残し、若くしてこの世を去られる方もいます。
すべての人に共通して言える「後悔のない人生の条件」「良い人生の条件」などないかもしれないというのが著者の考えです。
それでも、人生の最期に「より後悔がない人生だった」「より良い人生だった」と思える人たちがたくさんいます。
その境地に立てる人に必要な条件は、おおよそ次の4つに絞られるのだといいます。
①自分で自分を否定しないこと
②いくつになっても新しい1歩を踏み出すこと
③家族や大切な人に、心からの愛情を示すこと
④今日1日を大切に過ごすこと
あなたにとってなにが幸せなのか
コロナ禍もさることながら、今後、日本では少子高齢化がますます進みました。
医療者や病院、病床の不足が深刻化することが考えられます。
生きることに困難を感じる場面も増えるかもしれません。
そうした中で、より良く生きていくためには、たとえどんな状況にあっても、あなたを笑顔にしてくれるもの、あなたを支えてくれるもの、つまり「あなたにとって本当に必要なもの」に気づく必要があります。
そして、人生の意味を考えることは、あなたにとって本当に必要なものに気づくことであり、あなたにとって本当に必要な物こそが、私たちの人生に意味を与えてくれるのではないでしょうか?
ただ、元気に生きているとき、私たちはなかなか、その大切なものに気づくことができません。
人生の終わりが近づいてきたとき、それがなんであるかを知ることも多いのです。
ですから、これからの人生を、少しでも悔いなく生きるために。
より良く生きるために。
ここであらためて、著者からあなたに質問です。
もしあなたの人生があと1年しかないとしたら。
あなたは何をしますか?
あなたはどう生きますか?
どうしてもやりたいことは ありますか?
「人生がもしあと1年で終わるとしたら?」と自分に問いかけた時、「限られた時間で何をしたいか?」と考える人は多いでしょう。
残される人に迷惑が掛からないように、きちんと身辺整理したい。
ずっと会えずにいた人と会いたい。
家族や大切な人との時間を大事にしたい。
行きたかった場所に旅行に行きたい。
自分が生きていた証を残したい。
さまざまな「やりたいこと」が浮かぶのかもしれません。
一方で「何もやりたいことがない」という人もいるそうです。
著者がかかわってきた患者さんの中には、「早くお迎えが来てほしい」「何もやりたいことはない」などの人もいるのだそうです。
「やりたいことはやってきたから、思い残すことはない」という方や「もともと何事にも興味が薄く、物事に執着しない」という方。
あるいは、「仕事や家族のために、自分が我慢してきたので、『何かをやりたい』という気持ち自体なくなってしまった」という方もいるそうです。
「目標を持つべき」という風潮がこの社会ではありますが、あなたにはあなたの生き方を大切にすることが重要だと著者は言います。
夢や目標を持っている人と、あなた自身を比べる必要はありません。
やりたいことは、ほんの小さなことでも構わないし、そこから広がることも多くあります。
ただ、「生きる指針がほしい」「そのためにも、やりたいことを見出しいたい」とあなたが心から思うのならば、「もしあと1年で人生が終わるとしたら?」と想像しつつ、過去を振り返るのもいいかもしれません。
子どものころ、純粋に楽しかったこと。
こういうことをして、生きていきたいと思ったこと。
「人生があと1年で終わる」と考えれば、それまでの価値観が崩れ、あなたを縛っていた固定観念やしがらみから解き放たれ、見える景色が変わってきます。
もしかしたら、成長過程で忘れたり、あきらめたり、我慢させられたものの中に、あななたが本当にやりたいこと、大事にしたいことを発見できるかもしれません。
あなたが、後悔していることは?
人間は、過去を思うと後悔するように思考ができています。
ですから、人生での選択肢を目の前にした状況を思い返すとき、「これで良かったのだ」と思うよりも、ずっと多く「ああすればよかった」と思うものです。
それは、人間がそういうものだと理解しておくことが大切だと思います。
ただ、人生の終わりに本当に近づいたときの選択は、残された人の気持ちを考えると、決断を思い付きで決めることは避けたいもの。
著者は、患者さんのご家族に、患者さんの終わりの時期に対して何らかの重大な判断を下してもらう時、次の3つのポイントを伝えているそうです。
①1人で決めないこと
②1回で決めないこと
③専門家の言いなりにならないこと
さらに家族の方に伝えていることは、
「過去を振り返り、患者さんが何を大切にし、何を誇りに生きてきたのか、ご家族みなさんで思い出してください。そうすれば、ご本人が何を望むかがみえてくるでしょう」。
これは、人生であなたが直面する、さまざまな悩みの選択にもあてはまります。
何かに悩んだり、判断に迷ったりしたときは、誰か心許せる人に相談してみましょう。
もしもそうした相手がいない時は、「亡くなった人に相談する」という方法もあります。
実際著者は、困ったことがあると、しばしば20年前に腎臓がんで亡くなった父親に「相談」するのだそうです。
「もしも父だったら、こんなとき、どうするだろう」「もし父が生きていたら、私の悩みにどうこたえてくれるだろう」。
そうすることで、「自分は一人ではない」と感じることができ、心の負担は軽くなり、思いもよらなかった答えが導き出されることがあるそうです。
人生最後の日はどうやってやってくるのか
最後の時間の訪れは、多くの人にとっておおむね、次のような形で訪れるそうです。
まず、歩ける距離が徐々に短くなり、布団で過ごす時間が長くなります。
次に、食事量が減っていき、昼間でも寝ている時間のほうが長くなってきます。
そして死が間近に迫ってくると、呼吸が浅くなって回数も減り、意識のない状態が長く続いたのちに、ひっそりと息を引き取ります。
ドラマや映画などでは、よく亡くなる人が死の間際まで意識を保ち、話をしていますが、そのようなケースはほとんどないそうです。
著者が看取った末期がんの方のケースです。
その患者さんは1か月前には、食事は家族と同じ量を食べていて、車を運転して会社に行くことができていました。
しかし、著者がはじめて自宅に訪問したときには、患者さんは歩くことができなくなって、食事もほぼ水分だけとなっていました。
こうした状況から著者は残された時間が少ないと判断し、家族には「早ければ1~2週間以内にお迎えがくると思います。もう少し時間がたてば会話もままならなくなりますから、伝えたいことは、今のうちに伝えてあげてください」とお話ししました。
そして、その患者さんは8日後、眠るように静かに息を引き取りました。
人それぞれ個性が違うように、亡くなり方も一人ひとり違うそうです。
全員が穏やかな死を迎えられるわけでもなく、残念ながら不慮の死を遂げる方もいます。
しかし多くの場合は、肉体が死に向けて、きちんと準備を整えてくれます。
眠るように赤ん坊に戻っていくのです。
本当に人の死とは静かで穏やかなものだと著者は言います。
最後を迎えられた方には、「いつもお疲れさまでした」と心から思うそうです。
長い人生でも短い人生でも、死はひとつの区切り。
誰もが、いろいろな人とかかわりを持ち、一生懸命生きてきたのです。
良い人生だったかどうかは、第三者が判断できるものではありません。
その人のご本人だけが決めてゆくものだと、著者はいつも心から思うそうです。
あなたはひとりで頑張りすぎていませんか?
責任感が強い人は、人からも頼られ、素晴らしい素養として理解されています。
しかし、日ごろから人に任せたり頼ったりするのが苦手で、一人で頑張りすぎたりはしていませんか?
怪我や病気で体が動かなくなったり、人生の終わりが近づいたとき、責任感が強い人は、大きなショックを受けがちです。
自分より周りの人たちが心配でたまらなくなります。
患者さんによっては、這ってでも自分でトイレに行こうとしたり、たった一人で介護を抱え込む家族の方もいます。
死を目の前にしたとき、責任感の強い人、「人に迷惑をかけてはいけない」という気持ちが強い人には、大きな覚悟が必要です。
ある女性の患者さんは、とても責任感の強い方だったそうです。
元気なころは、専業主婦として2人の幼いお子さんを育てながらPTAの役員も引き受けていました。
ところが40代半ばで乳がんを患い、余命半年と宣告されました。
病気になってしまった自分を責め、苦しみ、周りの人への申し訳なさや子どもの成長を見守れない自分を許せない、と言い続けました。
しかし、3か月後、彼女の気持ちに変化が訪れました。
「自分がこの世を去る日が近づいている」ことを少しずつ受け入れ始めたのでしょう。
「この世で子どもたちの成長を見守るのは、夫の委ねることにしました」「私はあの世で家族を見守ることにします」と言うようになりました。
それと同時に、かつては苦悩に満ちていた彼女の顔には、穏やかな笑顔が浮かぶようになりました。
「苦しみは、一人でがんばらなければいけないと思い込んでいた。
私の目に映る景色はモノクロだった。
でも、ある日、ほんの少しの”勇気という一歩”を踏み出すことで、
あたたかな手を差し伸べてくれる人たちがこんなにもたくさんいることに気づいた。
その瞬間、わたしの目に映る景色に色がついた」
これは、3年ほど前に著者がかかわらせてもらったNanaさんという女性の患者さんが書いてくれた『病がくれた勇気/カラー』という詩の一部です。
Nanaさんは末期のガンで、著者たちと出会った頃は、水を飲んでもすぐに吐いてしまうような状態でした。
いくつかの対処により、食事を摂れるようになったものの、彼女の気持ちは重たいままで、「早くこの世から消え去りたい」「私には二にも残すものはない」と口にすることもありました。
そんなNanaさんが、「この病気になって気づいたことで、同じ病気で闘っている誰かのために、何かしらメッセージを残すことはできないでしょうか?Nanaさんの体験は、きっとほかの誰かの役に立てると思うので」という著者の提案に応えて書いてくれたのが、先ほどの詩です。
あたたかなてをさしのべてくれる人たちがいること、「できない自分」の存在を認めてくれる人たちがいることに気づき、さまざまな気持ちの重荷を下ろすことができたのでしょう。
それからしばらく、Nanaさんは本当に穏やかな時間をすごしていたそうです。
今まで、「一人でやらなければ」と思ってきた人に、いきなり「人に任せましょう」と言っても、そう簡単に変わることはできません。
基本的には、限界を迎えるまで頑張った末に、「これ以上、一人で抱えるのは無理だ」と心から思ったとき、人は初めて、人にゆだねることができると著者は思っています。
ただ、日ごろからその思いに苦しんでいる人は、一度「もしあと1年で人生が終わるとしたら?」と考えてほしいと著者は言います。
最初はやはり、残された家族や同僚に迷惑をかけることが心配になるもの。
しかし、考えを深め、整理していくうちに、ふだん「自分でやらなければ」と思っていることの中に、実は人にゆだねられるものがたくさんあることがわかるかもしれません。
私も「なんでも自分ひとりでやらなくては」と思いがちです。
限界まで働いて、疲れて休職したことさえあるのに、復帰すればまた抱え込んだ働き方を現在しています。
それは小さいころに親に頼ると怒られる経験をしてきたこともあったり、「責任感が強いね」という外からの評価が嬉しかったり、他人の目をひとより気にしてしまう性格だったり、いろんな原因がごちゃまぜになってこじれているんだと思います。
でも、「もしもあと1年で人生が終わるとしたら?」と考えると、誰にも作業を分配しないでいる今のスタイルは、デメリットでしかないと思いました。
今ワタシが目標にしているのは、
キッチンをはじめ家の中を家族が互いに片づけ合う使い方ができるようにすること。
子どもたちが自立できるようにすること。
同僚たちがひとり立ちできるように仕事を任せること。
こうした本を読む中で、本当はずっとやりたかったことをスタートする機会に勇気を出して飛びつくこともできました。
勇気を出して始めてみたら、障壁になるのではないかとずいぶん危惧していたことも、まったくの杞憂でした。
実は自分が思うよりも、ずっと人生は自由なのかもしれません。
自分の足枷を自分でつけているだけなのかもしれません。
「もしもあと1年で人生が終わるとしたら?」
そういつでも自分に問い直していこうと思います。
ブログのタイトルである「猫のメメとモエ」は、「メメントモリ(死を思え)」をもじっております。
休職したときに、希死念慮が湧いて自殺したい衝動が起きていました。
今でも、こうしてブログが書けてふつうの生活ができている自分は「あのとき実は踏切に飛び込んでしまっていて、今の自分は死んだ直後に見ている幸せな夢なのではないか?」と思うことがあります。
精神面で追い詰められたときに、ひとりで抱え込んで、家事や仕事に睡眠時間を削って働きました。
睡眠時間を削ることは、思いのほか精神をさらに病んでいくことになりました。
言われるがままに、働く毎日。
自分の疲れを無視する、という技法を手に入れてしまいました。
それでも、「私を嫌っている人」「自分自身のことしか考えられない人」からの評価を取り戻したくて、ご機嫌をとって必死に働きました。
しかしそもそも、そんな評価は幻想だったのではないかと今では思います。
今にして思えば、子どもたちを残して自殺したら、そのあとどんな傷を残しただろうと思うとぞっとします。
しかし、そこに頭が一切回らない。そういうものでした。
仕事を休んでも、本当に気持ちが休まることはありませんでした。
たくさんの自己啓発書を図書館の棚すべて1日1冊ずつ読み漁っていきました。
自分の生い立ち、性格の形成がどのようだったのかを思い起こしました。
仕事などで出会った人たちが、どうして自分にきつく当たるのか。
そんな人の評価がいかにいい加減な自分勝手なものだったのか。
心を砕いていた自分がいかにもろくてチョロかったのか、少しずつ気づきました。
疲れ果てて休職したのに、立ち止まっているのが怖くなりました。
マラソン大会に出場する、という本末転倒な目標を立てました。
全くをもって、自分自身を見つめなおせていない感じです。
疲れてたんだから、休めばいいのに。
休んでいる間に書き始めたこのブログは、初めは恥ずかしいほど上から目線でした。
両親は自分自身に手いっぱいな人たちで、長女であるワタシをカウンセラーにしたり、サンドバッグにしたりしました。
ワタシは少々性格をこじらせ、人に頼ることに恐怖心を持ってしまいました。
しかし、その親を恨んでも仕方ないし、最近になって「しょうがないよね」と思えるようになれました。
そこから、初めて人生に「奥行き」が出た気がします。
今までの人生は、平面的でした。
もっと人に頼っていいし、できない自分であってもいい。
もしあと1年で人生が終わるとしたら。
そうした問いを持つことで、クリアになることがいつもたくさんあります。
人を恨む、なんて時間は1秒だってありません。
人の分まで仕事を抱え込んで、大事な自分のための時間を浪費することも、ありえません。
くだらない人たちに心を割いている時間もありません。
そういう人は、そのような生き方の中で、その性格に見合った扱いを受けて、気づけばいいんです。
しかたないんですよね。
私たちが救ってあげる必要もありません。
気にかけてあげる必要もありません。
ご機嫌をとってあげる必要もありません。
今日は、とても疲れているのでこれからちょっと休みます。
それから、ひとりで映画を観て、ひとりで美味しいものを食べます。
マッサージを受けて、本屋さんに立ち寄って好きな本を買います。
休日用の服を買って(仕事用の服ばかり持っています)、夕飯は総菜にします。
早めに寝ます。
それから、明日からは自分の体力に見合った仕事をします。
ワタシの人生にとって一番大切な自分の子どもたちは、自分たちで遊びに行きました。
思いのほか自分の人生はそう酷くはないようです。
あなたも、あなたの人生を生きてください。
いつ終わってもおかしくないのが、生き物としての宿命ですもんね。
どんな風に育てられたとしても、どんな風に今扱われているとしても、それはあなたとは全く関係ないこと。
あと1年であなたの人生が終わるとしたら、何がしたいですか?
どう過ごしますか?
そう思って日々を大事に過ごしていきましょう。お互いに。
では、また。