「夢を諦めるな」と根性論的に言われたことがあなたもあるかもしれません。
しかし、それは本当でしょうか?
有限な私たちの人生。
どちらか一方を手に入れるなら、他方を「諦める」ことも大切なことではないでしょうか?
片方を捨てる、「諦める」ということは、自分の選んだ道を進むという「覚悟」とも言い換えられます。
それをしっかり意識して生きるなら、あなたはあなたが本当に「諦められない」もののために照準を合わせて生きることができます。
そうすれば、もっとあなたは毎日をもっとウキウキしたものにできるはずです。
たとえば、死を諦める
世の中では、「死」を嫌なものとして忌み嫌い、日ごろの生活から切り離して、できるだけ目に触れないように、忘れているかのように片づけています。
しかし、わたしたちは死に抗うことは不可能ですよね。
もしもわたしたちが不死にこだわり続けてしまったとしたら?
それこそ有限の人生を無駄にすることになります。
それならば、「死」を忌み嫌ってみないようにするのではなく、正面から受け入れる。それが「死を諦める」ということです。
「死んだら天国に行ける」「死後の世界はこんな風だ」などと夢見ていても、死なないと本当にはわからないですからね。
だから、今をしっかり楽しもう!死んだら終わりかもしれない!
それが「死を諦める」ということです。
終わりを覚悟する。終わりが来ることを「諦める」。
それは、今が「有限」であると腹落ちさせて生きること。
そうすれば、おのずから今をどう生きるべきか見えてきます。
安定を諦める
「みんなと同じようでありたい」「安定しているから手放したくない」「あっちもこっちも手に入れたい」と、人はつい考えてしまうものです。
でも、うまくそれらを「諦め」て、手放すことができたら、あなたはもっと自由でもっと人生を充実させることができるはずです。
わたしたちの生活は、じつは「諦め」によって成り立っています。
たとえば、画家や音楽家がどこかで「この作品は、この出来でおしまい」と「諦め」ができなければ、どうなるでしょう?
いつまでもひとつの作品に取り組み続けてしまい、世の中に音楽も芸術も製品も何ひとつ作品は出ないことになります。
私たちの日常においても、ちょうどよく「諦め」ることはとても必要なことです。
著者は安定した生活と睡眠時間を諦めた
著者には小さいころからの夢がありました。
庭園鉄道です。(かなり、突拍子もない感じを受けますが)
電車を拾い庭に敷いて、自分で運転するというもの。
しかし研究職に就いていた著者は、この夢をずっと封印していました。
当時特に悩みや不安もありませんでしたが、研究職に多少の幻滅を感じていたこともあったのだと著者は回想しています。
そこで、夢を実現させるために資金を稼ぐ方法を考えました。
昼間は仕事で時間が取れないので、夜バイトをすることにしました。
そして、それまで1度も書いたことが無かった小説を、夜中に書くことにしました。
その作品を出版社に送った結果、小説家になりました。
(調べてみましたが、著者の書いた有名な作品は、『すべてがFになる』(メフィスト賞第1回受賞作品)など。一時期、本書の著者である森博嗣(もり ひろし)さんは、人気作家と呼ばれていました。)
夜に小説を書くことで睡眠時間は3時間になりましたが、夢の実現のためにやっていることなので、ワクワクしていました。
庭園鉄道の夢は誰にも話さず、秘密裏にことを進めていました。
研究職にしても同様でした。
著者は大学の助教に就職し、やりたかった研究活動を日々行っていました。
しかし、准教授に昇格。
すると、大学の運営や学界の活動が爆発的に増えていきました。
そうした仕事に忙殺され、気づくとやりたかったはずの研究から遠ざかっていきました。
当時国家公務員として50万円近い月給をもらっていましたが、そもそも大学の先生になりたかったわけではなく、ただ研究がしたかっただけ。
10年ほど小説家と大学の仕事を両立させていましたが、もう働く必要はないと考え、著者は安定した生活を諦めました。
大学は退官し、小説家としても引退宣言をし、それから15年たっています。
随筆を多く手掛け、今回の本著はベストセラーとして再び大人気となりました。
ちなみに、庭園鉄道は10年かけて自作したそうです。
しかしそんな著者にも諦めた夢があります。
自分で人工衛星を作って打ち上げたい、という夢もありました。
しかしそれは、中学生くらいで諦めています。
とんでもない費用が必要で、一人の力だけでは無理だと理解したからです。
著者はだいたい人づきあいが苦手。
だから、多人数で協力し合わないとできない行為は、早い段階で諦めてしまうのです。
社会や環境を諦める
地球温暖化やテロなどの破壊行為も、実は「諦め」を上手にできないことから起きています。
「とても便利でラクな生活」を「諦め」られずにいることは、リサイクルや地球環境を守る活動を無視することになりますよね。
テロなどの破壊行動の裏にも、自分の信じる思想を諦められないことが原因になります。
社会の中で互いに少しずつ自分の「こうあるべき」という思いを「諦め」ることが必要です。
他の人のそれぞれのありかたを認め合うことができないと、いつだって世界中戦争です。
それが、本当に必要な「諦め」であり、それは言い換えるならば社会の中で生きていくための「覚悟」と言い換えることができます。
すべての人が孤独である
人間は家族がたくさん居ようと、ひとりで生きていこうと、どちらにしろ孤独なものです。
しかし、みんなと同じように育ってほしい、と多くの母親は思ってしまうものです。
著者は子どもを2人育てていますが、2歳まで発語がなくても、焦りませんでした。
ずっと本を読み、人の話を聞いている子でしたが、ある日堰を切ったように話し始めたそうです。
犬は10匹くらい飼っていました。すべての犬の性格が違うし、癖も違う。
どの犬が一番素晴らしかったか、と順位をつけることはできない、そういうものではない。
生まれた時は人間もばらついているものです。
さまざまな個性を持っていたはずです。
しかし、社会に出て、周囲と強調して、常識に染まっていく。
自分で考えなくなり、みんなと同じだと安心するようになってしまいます。
しかし私たちは同じようにみんなで死ぬわけではありません。
人生は、やはりそれぞれ個人のものです。
今世の中では、孤独を極度に恐れている風潮があります。
しかしそれは、それは本当は誰であってももがまちがいなく正真正銘の孤独だからであるからであると著者は指摘します。
大勢に囲まれている、と思っていてもそれは幻想です。
自分はみんなに理解されている、みんなから好かれている、というのも幻想です。
本当に他者の考えを知ることは不可能で、自分としか正直な対話はできません。
自分だけが自分のことを理解している、それが普通です。
だから、全員が生も死は孤独なものです。
今の自分が寂しい理由
わたしたちが孤独を恐れてしまうのは、過去のどこかに一時期だけあったにぎやかな環境、大勢が集まって一緒に活動していた雰囲気、その楽しさが諦められないからではないでしょうか?
誰でも、そういった賑やかさを経験します。
しかし、それは長く続きません。カップルであっても、また家族でも同様です。
よく思い出すと、そうした賑やかな時期の中にも一人の時間があったはずなのです。しかし、仲間とうまくいかなかったときなどの都合の悪い瞬間は、忘れてしまうのが人間です。
子どもが小さい時の思い出なども同じです。
そういった楽しい経験が忘れられない、諦められない。
今の自分がそれに比べて寂しすぎる、と思えてしまう。
そこにまた無理が生じる。それ自体がストレスになります。
老人に必要な諦めの美学
年齢を重ねたら、自分が老人出ることを自覚し、老人は寂しいものだと諦めること。
それが大事です。
いや、老人でなくても人間は寂しいものなのです。
人間なのだから、寂しさくらい我慢しましょう。
これは別の言葉で言うなら「悟り」です。
そして、そんな落ち着いて、にこにこしている老人は、きっと周囲からも親しまれますよね。
寂しさを紛らわせようと無理に誰かとつながろうとか、賑やかな場所で話をしたがる老人は、だいたい疎まれる傾向にあります。なぜなら、それは誰が観ても不自然と映るからです。
老人は、死期が近づいた人ということ。
少しずつ、生きることを諦めつつ、穏やかに生きていれば、人生の最期を迎えるときも、微笑んでいられるのではないでしょうか?
次の世代に何かを伝えたい、自分がやってきたことを受け継いでもらいたいなら、40代くらいに済ませておきましょう。
相手が教えてほしいとアプローチしてきたら、応えればよく、自分から語るものではありません。
老人に必要なのは諦めの美学だと著者は思っています。
家族にも子供にも期待しない
著者は家族にも他人にももとから期待しません。
家族各自が勝手な時間に起き、勝手なスケジュールで生活し、カレンダーに出かける予定を書くくらいでせいぜいだそうです。
家族の「絆」などいらない。
それよりも、お互いに自由を尊重することが大事であり、それが著者の家の「愛」であり、もしかしたら「絆」かもしれないと考えています。
他者への期待
多くの「諦め」は、期待から生まれます。
期待が大きければ、大きな落胆を味わいながら諦めなければなりません。
期待したのは、自分の欲望ですが、特に他者に向かった欲望は、どうしてもずれています。
その人にはその人の生き方があり、じぶんとは別の人間だからです。
いくら血がつながっていても、同じ人間ではなく、ましてや血がつながっていない他人なら、なおさらです。
それでも、人間は他者に期待しすぎてしまうもの。
誰もがそこを考え直していく方が良いのです。
争いが起こるのも、期待の裏返しです。
仲が良かったから、仲たがいになります。
関係が良かったから、喧嘩になります。
お互いが期待しあい、自分がイメージした見返りを夢見ているから、いつかはその幻想を諦める結果が訪れます。
期待しあうのが「愛」と反論があるかもしれません。
そうかもしれないし、そうではないかもしれません。
世間一般に普及していることが、=「正しい」わけではありません。
いろいろなものがあるし、いろいろなものがあることを認めるのが、「正しい」理解です。
同じ考え方でなければならない?
日本人は、長く同じ考えでなければ仲間になれない、という考えを持っていました。
だから少数派は隠れているしかなかったのです。
しかし、外国からも今はたくさんの人たちがやってきて、いろいろな思想や文化を認めなければならない社会になりました。
だから、自分はこう考える、と議論が必要です。議論しても互いに変わらないのが普通です。しかし、多少の影響があります。
そして、違うことがわかることにも価値があります。
違うことを認めてこそ、相手を本当に尊重できます。
自分と違う考えでも、立派で尊敬できる人は大勢いるはずだからです。
自分と同じ考えの人を探そう、などというばかばかしいことは早々に諦めたほうがいいと著者は言います。
その時同じでも、時間がたつと変わってくるのが普通だからです。
「理解」は同調ではないし、好きになることでもないのです。
単純な観念は諦めた方がいいのです。感情的なもので、すべて解決しようとする危うさがあるからです。
人間関係を大切にし、あなたの時間を有意義に使うには、それらを諦めていきましょう。
この本を読んでから、ずっと「諦め」を意識するようになりました。
意識して諦め、手放していくと、ココロが軽くなります。
何でも欲張りに欲しがっていると、重くなってしまうのかもしれません。
今週もお疲れさまでした。
ゆっくり休んでくださいね。
では、また。