いろんなところで目にする、生きづらいって言葉。
迷ったり悩んだりあがいたりする以前の、もっと曖昧な「ここは自分のいる場所ではないんじゃないか」という思い。
そして「いきていてもいいのか」という疑問。
何かが足りなくて、何かがはみ出して、世の中をうまく泳げないでいる。
そんな人たちが今、多いのです。
ワタシは人にひどくきらわれて、その関係性を改善しようとして、よけいこじれたあげく、ずいぶん体調を崩したことがあります。
「誰からも好かれたい」という思いが人一倍強かったのです。
「何とか信頼を取り戻したい」とかなりの無理をしたのです。
今にして思えば、誰とも分かり合うなんて無理なことを追いかけていました。
しかし、今でもそのころのことを思い出すと、胸が痛くなります。
著者もかつて生きづらさを抱えていました。
それこそ息をするのもつらいくらい。
人を傷つけ、同時に自分も傷付き、傷が癒えても自分でかさぶたを爪ではがし、自分をえぐり出していました。
でも、気づいたのです。
自分が100人を全員同じように好きになることができないように、100人全員に好かれることはできない、ということを。
きらわれることを恐れなければ、気持ちは楽になる
あなたに著者からの質問です。
もしもあなたが、いい人、みんなに好かれる人になって、その先に何があると思いますか?
きつい言い方かもしれませんが、薄っぺらい自尊心が満足するだけかもしれません。
みんなに好かれようとする人って、印象が薄いですよね?
人に合わせるから、個性がなくなるのです。
そんな話がつまらないそんな人と、あなたは友達になりたいでしょうか?
あなたがあなた自身に正直になることができたなら、あなたをきらう人もいるけれど、同時にあなたのことが好きで、味方になってくれる人たちが必ず現れます。
それが「自分が存在する」ということ。
誰からも好かれたい、誰からもきらわれたくない。という「あなたを束縛するもの」から抜け出せば、きっと人生は変わるはずなのです。
自分が好きな「自分」であればいい
「きらわれたっていい」と思うのはとても難しいことです。
でも、そう思えるようにために一番簡単なことは「自分が好きな自分であればいい」ということです。
あなたは自分のことが好きですか?
今の自分を愛せますか?
まず、そこから始めてほしいと著者は言います。
著者は30代初めに模索した理想の自分は「これから先の未来、どんなときでも、ふりかえったときに”潔い自分”がいる」ということでした。
今も思いは同じで、常に潔い自分を目指しています。
実は著者は自分の本質を、暗くてうじうじして、かなりの粘着質だと言っています。
だから、情念系の詞を書くのが得意で、著者のヒット作『残酷な天使のテーゼ』も『魂のルフラン』よく読むと実はとても暗い詞です。
だからこそ、「潔い自分」を演じることを大事にしてきたのです。
『東京』など多くの詞を書いた歌手のやしきたかじんは、著者の知り合いです。
毒舌で乱暴者で、無頼な振る舞いをする人として有名でした。
しかし実際の本人は、実はいつも爪を噛んでいるために深爪になっていました。
彼の繊細で神経質な性格が、明らかに見て取れていました。
しかし彼は「世間がそういう自分をもとめているから」演じているのだと言っていたそうです。
イメージを演じることは、よくあることですし、それが「自分らしさ」になっていきます。
それは、それでよいのです。
自分らしさは世間が決めることだから、「自分が世間からどう思われたいか?」が、「こうなりたい自分」になればいいだけのことです。
自分のなりたい自分になっていきましょう。
「自己肯定」を人任せにしてはいけない
人からよく思われたい、みんなから好かれたいという日とは、自己肯定を他人にゆだねていることがほとんど。
それって誰かに「あなたはあなたのままでいいんだよ」と言ってもらうのを待っているんです。
でも、そうやってあなたの全部を受け入れてくれる人を探そうとするから、自己肯定が大変になるのです。
自己肯定なんて、自分しかできないもの。
自分が変わりたいと思うなら、変わればいい。
自己肯定につながることすべて他人にゆだねてしまうと、何度も人に確認をとりたくなってしまうのが、やっかいなのです。
それじゃあ、いつまで経っても自分のことなんて好きになれません。
「私」を愛することができるのは、私。
自己肯定は、まずそこからです。
「きらい」は「好き」の裏返し
著者は自分の書いた詞を「きらい」と言うひとがいると「よかった!」と思うそうです。
そう言ってくる人がいるということは、その逆で「好き」と言ってくれる人がいる、という証拠だからだそうです。
「好き」の逆は、本当は「無関心」。
関心があるだけ、「きらい」は良いのです。
「自分と違うから間違っている」と言う人がいますが、それは「自分の方が賢い、偉いんだ」という自己顕示欲や優越感があったりするからです。
深夜番組の『朝まで生テレビ!』は、朝まで観ていても討論がまとまりませんね。
それは、「自分が正しい」と思っている意見の違う人が集まっているからです。
そんな人たちの集団では、答えや結論が出ないのです。
それは、わたしたちの人間関係も同じこと。
職場などで「みんなでひとつのものを作る」となったら、目標に向かって妥協点や説得の努力が始まりますよね?
でも、目標が無いと、まるでネット上の議論のように意見がまとまらなくなるものなのです。
あなたがネットで「私はリンゴが好きです」と書いたとします。
すると、「私もリンゴが好き!」と言う人もいれば、「リンゴが好きな人と一緒にいられない」と言う人もいます。
「フジが好き」
「青森産がおすすめ」
「王林も美味しいですよ」
と掘り下げてくる人もいます。
「リンゴが好き」ということは、正解でも間違いでもないのです。
そこへ、
「なぜ桃を食べないのか!」
「バナナ好きをもっと増やした方がいい」
「リンゴをたべるやつはバカ」
「日本人ならミカンを食べるべきだ」
「ブドウ生産者にもっと儲けを!」
「フルーツを食べると糖分摂りすぎでデブになる」
と、まったく違う意見を主張する人が絡んでくるからおかしなことになるわけです。
そういう人たちに関わって、嫌な思いをして心を削られるなんて、手間も時間も体力ももったいないと思いますよね?
さっさとブロックするなり、ミュートするなり、自分の目に入らなくするのが得策ですね。
「こんなにしてあげたのに」は、あなたのエゴの押し付け
他人に合わせている人は、「私はこんなにしてあげたのに、あなたは何もしてくれない!」と逆ギレすることがあります。
言われた方は、相手が我慢してあわせてくれていたなんて夢にも思っていないから、びっくりするんです。
でも、「してあげた」のは、自分のエゴから出たもの。
自分がしてあげたからといって、相手から同じものをもらえるわけじゃないのに、合わせているうちに我慢しきれなくなってボロが出て、演じきれなくなってしまっただけ。
著者は2度目の結婚でトルコ人の元旦那と離婚した後付き合った男性が、とてもプライドの高い人でした。
そのプライドを立ててあげないと、と思って「あなたはすごいよ」なんて言っていたら、ストレスが溜まって溜まって・・・。
今考えると、彼のことをすごいとは全然思って否かってけれど、離婚後で弱っていて、誰かにそばにいてほしかった。
だから相手が喜びそうなことを口先だけで言っていたのです。
でも、「あれ?これって違うんじゃない?」と思う。
そのうちに、我慢の限界がきました。
「私はこんなに気を遣っているのに、なぜあなたは何もしない!」
被害者意識に変化すると、もうその相手は、一緒にいて心地よい人でなくなってしまいます。
寂しい、満たされない心は、あなたの「原動力」になる
人に合わせてしまうのは「寂しい」という感情があるから。
でもひとりでいるのは、案外寂しくないし、気楽にすごせるものです。
人が感じる孤独感は、けっこう「疎外感」だったりします。
自分の居場所の居心地が悪くて、別のところを探したりしていたり。
でも、結局どこへいっても、孤独感や疎外感はつきまとうものです。
孤独感は2種類あって、人と会って話したりすることで解消できるものと、何をしてもどうにも埋まらないものがあります。
著者は友達が多く、仕事でもプライベートでも誰とでもするりと仲良くなれます。
でも、心の憶測に絶対に誰にも踏み込ませない部屋があります。
その場所は外に向けて完全に閉じています。
誰かをいれてしまえば、この悲しみも寂しさも軽くなるとわかっていますが、人がドアに触れることさえ拒絶しています。
それが絶対に埋まらない著者の孤独感の正体です。
でも、そういう場所を持っていること、さらに不安定な心があること。
それは、ものを書く著者にとっての宝物なのだそうです。
満たされない、寂しい心は、原動力になります。
マイナスをプラスに変える力になります。
ものを生み出す人たちは、自分のなかにぽっかり開いた穴や空洞があります。
そしてそれを埋めるために、必死でものを書いたり、何かを作っていることが多いそうです。
誰にも立ち入れないほどの深い孤独感があるかどうかは、持って生まれた才能のひとつだと著者は考えます。
孤独に耐えられない人間は、ものを作ることには向いていません。
著者は1週間ぐらい、誰とも会わない、誰とも話さない、という生活はざらだそうです。
むしろ、楽しいくらいだそうです。
作詞家であることにとても必要なことだそうです。
孤独感なんて、一生埋まらないもの、と受け止めていればいいのに、必死で埋めようとスマホを凝視して、何かしらに必死でアクセスしている。
とにかくひとりになりたくない、と思ってしまう。
この国に生まれなければよかった、この時代でなければ違う人生だったはず・・・なんて思うかもしれないけれど、それは考えたってしかたないもの。
だって、そこに生まれてきてしまっているのだから。
いつも孤独感や疎外感を感じているなら、逆にひとりで夢中になれるものを作ればいいのです。
一心不乱に刺繡をするのでもいいし、絵を描くのでもいい。
そのことをやっている間は、孤独感や疎外感は感じていないはず。
もちろん映画を見たり、本や漫画を読むのでもいい。
ひとりで夢中になれる好きなものを見つけられたら、孤独はあなたの力になります。
本書に書かれている、「自己肯定感を他人に任せている」人って、ワタシだなぁ、と思いました。
人とうまくいかなくてそれを気に病んでいた日々が、いかにバカらしかったかを振り返ることができました。
著者自身も「誰かに頼りたくて」失敗した経験を人一倍持ち、それを分析して生きる糧に変えて仕事に昇華して生きてきています。
今週もおつかれさまです。
ゆっくり休んでくださいね。
では、また。