猫のメメとモエ

生命線があと10年分しかない!どうせなら、やりたいことに(あまりお金をかけずに)ちょっかいを出すことにした猫好きのブログ。メンタルトレーニング、自己啓発、一人旅、猫めぐり、山歩き、真剣な子育て、ジョギング、写真。その他いろいろ。

『嫌われる勇気』~「あの人」の期待を満たすために生きてはいけない

読み応えは絶句の一言!

お腹の底にガツンと響く、人生の考え方を根本から覆す一冊。

 

自分の人生を生きる、そのために必要なことは、何でしょうか?

 

こんばんは、ラブです。

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他の人の目ばかり気にして自分軸がぶれた時や、将来が見えないことに不安でいっぱいになったとき、アドラー先生はいつも考え方を正してくれます。

この『嫌われる勇気』は、哲人と青年の問答形式。

他のアドラー心理学の本に比べて、より私たちの疑問に深く答えてくれます。

この中から、今のワタシに響いた言葉を紹介させていただきます。

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「人は変われる」

ライフスタイル(アドラー心理学では性格や気質を指す)は、自ら選んだと考えます。

フロイトは生育や環境などの要因でライフスタイルは決まる、と述べています。

しかし、アドラー心理学ではそれらを「今の性格になったことへの解説であっても」、 「そのライフスタイルを選び取ったのは自分である」と考えます。

なぜなら、同じ環境でも「その環境をどう解釈・受け止め」をするか、は自分自身だから。

貧乏な家庭に生まれて、その環境を恨んで生きるのか、バネにして生きるのか、それによってライフスタイルは変わるように。

(『人生に革命がおこる100の言葉』)

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あなたの不幸は、あなた自身が「選んだ」もの

だから、「不幸であること」も自分の性格も自らの手で選んだものです。

今の自分や環境を「不幸である」と解釈するのも、「幸せである」と解釈するのも自分の手で選んだものだから。

 

しかし、自分で選んだのだから、再び自分で選びなおすことも可能と考えます。

自分はいつでも生まれ変わることができるのです!

 

でも、そう言いながらも人はなかなか変われません。

それは、「自分に対して『変わらない』と決心を下しているから」とアドラーは言います。

なぜなら、「このままのわたし」で居る方が目の前の出来事への対処も結果も、経験から推察できるから。楽で安心だからです。

 

アドラー心理学は勇気の心理学です。

そうして性格を変えたくても変えられないのは、「幸せになる勇気」が足りていないと考えます。

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あなたの人生は「いま、ここ」で決まる

もし、今の自分を変えたいと思うなら必要なのは、「いまのライフスタイルを変える」ことです。

「もしも何々だったら」と可能性の中に生きているうちは、変えることなどできません。

それは「もしもYのような人間になれたら」という自分への言い訳です。

例えば小説家を夢見ながら、なかなか作品を書き上げられない人がいます。仕事が忙しくて書き上げられず、賞の応募に至らない。でも、実際は応募しないことによって「やればできる」という可能性を残しておきたいから、おそらく彼はあと5年10年すれば、「もう若くないから」「家庭もできたから」と言い訳をはじめますよ、と哲学者は指摘します。

厳しいことではありますが、あなたは「あなた」のままで、ただライフスタイルを選びなおせばいい。

アドラーの目的論は「これまでの人生になにがあったとしても、何の影響もない」と言っています。自分の人生を決めるのは「いま、ここ」に生きるあなたなのだ、と。

・・・とても勇気がもらえる一言ではないでしょうか?

なぜ自分のことが嫌いなのか

自分が嫌いなのは、「自分を好きにならないでおこう」とあなたが決心しているから。

そうすることで、「自分は自分が嫌いだから何々ができない」「好きになればできるはず」という可能性の中で生きることができます。

「こんなひねくれた自分嫌いなわたしと付き合いたい人はいないだろう」という言い訳を残すことによって、「他人から嫌われ、対人関係の中で傷つかない」ことを「目的」としているのです。

しかし、対人関係の中で傷つかないことはあり得ません。その悩みを消し去るには宇宙の中でただひとりで生き続けるしかないのです。

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劣等感という思い込み

155㎝の身長である哲人(アドラーもまたそれ位であったと言います)。

かつて哲人も「もっと大きければ」と悩みました。

でも友達に「大きくなってどうする。お前には人をくつろがせる才能があるんだ。」と一蹴されます。

つまり身長は「劣等性」ではなかったのです。

問題は、その身長に対して自分がどのような意味づけをほどこすか、どのような価値を与えるか、です。

つまり、われわれを苦しめる劣等性は「客観的事実」ではなく「主観的な解釈」だったのです。

主観にはひとつだけいいところがあります。それは自分の手で選択可能だということです。

しかし、社会には成功者とみなされる人でも劣等感を持っています。

人は無力の存在としてこの世に生を受け、無力の状態から脱したいという「優越性の追求」という欲求を持っています。

人は誰しも「向上したいと思う状況」にいて、そこに向かって前進しているが、「まだまだ未熟だ」と理想に到達できていない自分に対しまるで劣っているかのようなある種の劣等感をいだくもの。

これは健康で正常な成長への刺激です。

でも、そこから一歩踏み出す勇気をくじかれ、「状況は現実的な努力によって変えられる」という事実を受け入れられないまま、何もしないうちから「どうせ自分なんて」とあきらめてしまう人がいます。

それは、劣等感ではなく劣等コンプレックスです。

劣等感は「私は学歴が低いから、他人の何倍も勉強しよう」という望ましい話。

でも、劣等コンプレックスは自らの劣等感をある種の言い訳に使い始めた状況を指します。

「私は学歴が低いから、成功できない」

「私は器量が悪いから、結婚できない」

と考える。

「AだからBはできない」は、劣等感の範疇ではなく劣等コンプレックスです。

アドラーはこれを「見せかけの因果律」と説明しています。

一歩踏み出すことが怖い、努力をしたくない、つまりライフスタイルを変える勇気がない。楽だからそうしているのです。

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人生は他者との競争ではない 

健全な劣等感は「理想の自分」との比較で生まれるもの。

われわれは、同じではないけれど「対等」なのです。

誰かと競争することではなく、今の自分より前に進むことこそ価値があります。

対人関係の軸に「競争」があると、人は人との対人関係の悩みから逃げられず、不幸から逃れることができません。

常に他者と「あの人に勝った」「負けた」と考えていれば、いつの間にか他者全般、世界のことを「敵」だと見なすようになります。しかし実際は、他者はあなたを24時間監視しているわけでも、虎視眈々と攻撃の機会をうかがっているわけではありません。

「お前の顔を気にしているのは、お前だけ」

哲人の友人が少年時代、長時間鏡に向かって髪を整えていたのを「お前の顔を気にしているのは、お前だけだよ」と祖母に言われ、少しだけ生きていくのが楽になった、といいうエピソードが紹介されます。

人生は他者との競争ではない

また、登場人物の青年が、「幸せそうにしている他者を、心から祝福できない」ことについても、語っています。

青年は幼少から出来のいい兄と比較されて育ち、劣等感を感じて性格が曲がってしまったのがその理由。

しかし哲人は青年が対人関係を競争で考え、他者の幸福を「わたしの負け」であるかのようにとらえているから、祝福できないと言い切ります。

競争の図式から解放されれば、だれかに勝つ必要がなくなります。

「負けるかもしれない」という恐怖からも解放されます。

他者の幸せを心から祝福できるようになるし、他者の幸せのために積極的な貢献ができるようになるでしょう。

その人が困難に陥ったとき、いつでも援助しようと思える他者、それは「仲間」と呼ぶべき存在になります。

「人々はわたしの仲間なのだ」と実感できれば、世界の見え方は全く違ったものになります。

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「あの人」の期待のために生きてはいけない

他者から認められるのは、うれしいこと。

でも、ゴミ拾いでもなんでも他者から褒められなければやらない、というのならばそれは賞罰教育の悪影響です。

他者の期待など、満たす必要はない、とアドラーは言います。

せっかくの自分のための人生を、他者の期待に生きれば、他者の人生を生きることになってしまう。

そしてまた、他者も「あなたの期待を満たすために生きているのではない」。

両親の期待に応えられなかったら自信が持てないという生は、健全と言えるでしょうか?

たとえば「神が見ているから、善行を積む」と考える。しかしそれは「神など存在しないから、悪行は許される」という神無き世界のニヒリズムがあります。

それを克服するために、アドラーは承認欲求を否定します。

他者から承認してもらおうとするとき、「他者の期待を満たすこと」がその手段となります。

例えば仕事の目的が、「他者への期待を満たすこと」であれば、いつも他者の評価におびえるとても苦しいものになります。

 

「課題の分離」

そこで大切なのが「課題の分離」というアドラーの考え方です。

例えば勉強しない子どもに対して、ご飯を食べさせないなどの手法をとれば、子どもは勉強嫌いになります。

「これは誰の課題なのか?」「その選択によってもたらされる結果を引き受けるのは誰か?」

勉強しないで困るのは子ども。本人の課題であることを伝え、勉強したい時には援助できることをしっかり伝える。親の世間体や支配力欺瞞のために勉強を強制すれば、見透かされてしまいます。後で強烈な反発があるだけ。

自分を変えることは自分しかできないのです。

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「あなたは世界の中心ではない」

自分が共同体の一部であることを自覚する。

王子さまやお姫様ではないのだから、「あの人はわたしに何もしてくれなかった」という理論は相反します。

それは、世界の中心を自分と考えている人だから。そしてその考えでは仲間を失ってしまいます。

われわれがみんなもつ「ここにいてもいいんだ」という所属感への欲求を満たすには、一部である以上自分が積極的にコミットすることによって得られます。

仕事、交友、愛という対人関係のタスクに自分から足を踏み出していく。

「この人に何を与えてもらえるのか?」ではなく、共同体の一部として「わたしはこの人に何を与えられるか?」を考えなければならないのです。

所属感は生まれながらに与えられるものではなく、自らの手で獲得していくものなのです。

自分には価値があると思えるように

評価は危険なことです。期待を生きてしまうから。

大事なのは感謝や尊敬、喜びの言葉です。

人は感謝の言葉を聞いたとき、自らが他者に貢献できたことを知ります。

人は自分に価値があると思えたときだけ、勇気が持てるのです。

「誰かの役に立っている」と思えること、自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えることで、われわれは自らの価値を実感できるのです。

自己肯定ではなく自己受容

共同体感覚を持つには、自己への執着から他者への関心に切り替える必要があります。

そこに大切なのは、「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」です。

自己受容では、できもしないのに「わたしは強い」と自らに嘘をつく「自己肯定」とは違います。「できない自分」をありのままに受け止めます。

60点の自分に「運が悪いだけ」と言い聞かせるのではなく、「100点に近づくにはどうしたらよいか」を考えるのが自己受容です。

「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極めること。

われわれはなにかの能力が足りないのではありません。

自分をありのままにを認める”勇気”が足りていないのです。

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 仕事の本質は他者への貢献

他者貢献は自己犠牲ではありません。自己犠牲についてアドラーは「社会に過度に適応した人」として警鐘を鳴らしています。

他者貢献とは、「わたし」の価値を実感するためにこそなされるもの。

労働とは他者貢献をし、共同体にコミットし、「わたしは誰かの役に立っている」ことを実感して、自らの存在価値を受け入れること。

 若者は大人よりも先を歩いている

例えば食器の片付けにしても、家族から「ありがとう」と言われるためでなく、他者に何ができるかを考えて実践していきたい。

他者を「敵」とみなしたまま行う貢献は、もしかしたら偽善につながるのかもしれない。

でも、「仲間」とみなしているなら、いかなる貢献も偽善にはなりません。

アドラーは、行動の目標として、こんなものを掲げています。

①自立すること

②社会と調和して暮らせること

この行動を支える心理面の目標

①わたしには能力がある、という意識

②人々はわたしの仲間である、という意識

 アドラー心理学をほんとうに理解して、生き方まで変わるには「それまで生きてきた年数の半分」が必要だと言われています。40歳なら60歳まで。20歳なら+10年の30歳で済みます。

普通であることの勇気 人生は連続する刹那

「普通である」ことは「無能である」ことではありません。

わざわざ自分の優位性を誇示する必要などないのです。

人生は、いまこの瞬間をくるくるとダンスするように生きる、連続する刹那です。

「いま、ここ」が充実していれば、それでいい。

目的地は存在しないのです。

人生最大の嘘

「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てる。過去も未来も「いま、ここ」で考える問題ではない。

人生最大の嘘は「いま、ここ」を生きないこと。

人生全体にうすらぼんやり光を当てて、なにか見えたつもりになること。

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無意味な人生に意味を与えること

仮に大きな天災に見舞われたとき、原因論的に「どうしてこんなことになったのか?」と過去を振り返ることにどれだけ意味があるでしょうか?

われわれは「これからなにができるのか?」を考えるべきなのです。

アドラーは「一般的な人生の意味はない」と語った後、「人生の意味はあなたが自分自身に与えるものだ」と続けています。

哲人の祖父は戦時中焼夷弾によって顔面に大やけどを負いました。

どこまでも理不尽なこの扱いに「世界はひどいところだ」「人々はわたしの敵だ」というライフスタイルを選ぶこともできたでしょう。

でも、通院のため電車に乗ると毎回ほかの乗客が席を譲ってくれたそう。

どんな状況でも「人々は仲間であり、世界はすばらしいところだ」というライフスタイルを選択することはできるのです。

人生の意味は、あなたが自分自身に与えるもの

自分の人生に幸福と自由を選ぼうとするなら、アドラー心理学では導きの星を掲げています。

それは、「他者貢献」。

「他者に貢献するのだ」という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないし、なにをしてもいい。嫌われる人には嫌われ、自由に生きてかまわない。

今の刹那を真剣に踊り、真剣に生きる。誰かと競争する必要もなく、目的地も要りません。踊っていれば、どこかにたどりつくから。

最後に哲人は言います。

世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ「わたし」によってしか変わりえない。

 

最後に

ここまで読んでいただいたことに、深く深く感謝します!!

 

端的にまとめられず、失礼しました。

この本は思想が流れるようにつながっているので、途中をピックアップすると理論が通じなくなるので・・・。

 

愛読されている多くの方にとっては、「あれもこれもカットか!?」という場面も多かったと思います。スミマセン。

 

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年末も近づいてまいりました。

掃除や断捨離にもってこいの季節。

でも、たまにはこんな本で人生を考えていくのも楽しい時期ですね。

 

 

 

明日も素敵な一日でありますように・・・。

 

では、また。