中学でいじめに遭った辛い記憶は、20代のときはたまにフラッシュバックして、夜中にうなされたり、日中思い出して気分が落ち込んだりしていました。
そんな感情を消化していく過程でやっていったことを紹介したいと思います。
こんばんは、ラブです。
今どき、どこでも殆どの人が経験しているものかも知れません。
3年生のクラス替えで愕然としました。
2年生まで仲良くしてきたグループの友達が一人もいない!
どこのグループにもイマイチ所属しきれないところへ、クラスのリーダー格の不良女子に目をつけられてしまいました。
担任は若いイケメンなために、女子的プライドからどうしても相談できませんでした。
はじめはその不良グループから、給食や休み時間、掃除の時間に聞こえよがしな意地悪を言われていましたが、やがてクラスの女子全員が面白がって参加するようになりました。
いっそ、消えてしまいたい。
そう思っても、親に自分が苛められていることも、「こんなことを言ったら、悲しむかもしれない」という思いから、どうしても言えません。
そうこうしているうちに、修学旅行。
当然私の入るグループはありません。
そこで、担任の采配で入ったのは、なんと苛めの張本人たちのグループでした。
もしかしたら、旅行先で我慢しきれず自殺するかもしれない。
でも、逃げることもできない。
自分の部屋の机の引き出しに、こっそり遺書を書き残しました。
修学旅行に出掛ける朝、父親の笑顔がどうしても見たかった。一晩考えて捻った渾身のギャグは「修学旅行で居ない間に美味しいもの、食べないでね!」。
いつもギャグなんか言わない娘なので、大ヒット。
父はそのギャグがそんな理由で生まれたことも知らず、亡くなるまで30年も「あいつは、修学旅行の朝に、こんなこたとをー(笑)」と言っていました。
修学旅行中はいじめは止める、とその不良グループは決めていたらしく、怖くてびくびくしていた私は肩透かし。
旅行から戻ってから、また戻りましたが、少しずつ関係が柔らかくなったので、不良グループを放課後クラスに呼び出して、話し合うことにしました。
今思うと、どうしてあんな度胸があったのか、と思いますが必死なんですよね、そういう時って。
放課後残ったのは、不良グループが声をかけてクラスの女子全員が。
もう死にそうです。
そこで聞いた話では、不良グループの女子と私に掃除分担場所や給食当番の仕事で行き違いがあったということ。
不良グループたちが、便乗してクラスの女子が私をいじめているのが、腹立たしいと思っていたこと。
互いに謝りあってその場は終了。
でも、やはりわだかまりの残った日々となりました。
卒業式の日には、不良グループに呼び出され、殺される!と思っていたら「ごめんね」と言われました。
世の中のいじめにあってきた人たちに比べて、全然緩いでしょうけれど、それでも20代まで夜中にうなされたり、日中思い出してパニックになったりしていました。
そうした記憶が私を苦しめなくなったのは、仕事で障がいを持つ人と関わるようになってから。
あの人たちは、ものすごく強い。
一緒に電車に乗れば、汚いものを見る目を向ける若い人たちもいます。
車椅子だって混んだ電車に乗らざるを得ない時があります。おじさんたちが舌打ちします。
それでも、彼らは胸を張って生きています。
ちょっと意地悪を言われたくらいで、背中を丸めていた自分が恥ずかしいと思いました。
進行性の病気を抱え、私たちより短い人生を余儀なくされる人たちは、毎日を本当に楽しんでいます。
他人が嘲ろうと、何を言おうと、自分が自分であることに喜んで生きている。
時にその人たちに向けられる、差別。
施設を作ろうとしたら、周辺住民から反対運動が起きたり、補助金をカットされたり。
その人たちと涙を流したり、笑ったりするうちに、気づいたらうなされることもなくなっていました。
誰かのために仕事をさせてもらうこと。
それは、本当に自分す救ってくれますよね。
長い時間、自分の傷と向き合ったり、あれこれ試したりしましたが、アドラー心理学でもあるように、「誰かの役に立つ」ことは、人間を強くしてくれますね。
子どもと関わる仕事もしていた時期がありました。
そのときは、様々な傷を持った子どもにも、いじめられた経験から、気持ちに寄り添うことができました。
どんなことも、ひょっとしたら強みに変えられるのかもしれません。
強みに変換する力は「他者貢献」が、最強。
今後も辛い経験は、ネタにして誰かの慰めにしていけたら、と思う次第です。
初夢は、昨日の夜という説と今夜という説があるとか。
楽しいことをたくさん思い浮かべて、素敵な年にしませんか?
明日も最高な1日になりますように!
では、また。