身近な人との考え方の相違に、マジで悩んでおります!
も~、どうすればいいんだあああああ!!
こんばんは、ラブです。
「なんでこんな話が通じないんだろう??お互いまったく相いれないんですけどー!!」
と思うこともあったり。
違うということを、どこかで認めていないんでしょうね。
でも、どうやっても認め合うことができません・・・・。
そこで、こんな本を読んでみました。
助けて~!
『99・9%は仮説 思い込みで判断しないための考え方』竹内薫
飛行機も「とりえず仮説」で飛んでいる!?
科学だけでなく、私たちを取り巻く世界も、実は仮説に満ち溢れています。
親から教わることも、教科書に載っていることも。
例えば、「飛行機が飛ぶしくみ」は、根本の部分で証明しきれていないと、アメリカの科学誌や航空関係の専門誌に大々的に取り上げられているそうです。
「飛行機が飛ぶ」という一見当たり前の事実でさえ、その本当の原因は、さまざまな経験則による推測に過ぎず、いってみればただの「仮説」にすぎないそうです。怖い。
地球温暖化についても、本当に二酸化炭素が増えたことが原因かどうかは、完璧にはわかっていないとも言われています。
ひょっとしたら、地球が温暖化しているから二酸化炭素が増えているのかもしれない、という。
つまり、「人間の活動のために出た二酸化炭素が・・・」というのは、社会の常識ではあっても一つの仮説でもあるんですね。
まぁ、それでもエコライフは絶対がんばりますけど。
地球がこれ以上温まったら困るし!
データがあっても、自分の仮説はくつがえしにくいもの
では、データがすべてなのか。データも見る人の受け取り方で意味合いが変わりますよね~。
ガリレオが唱えて裁判にかけられた「地動説」。
当時の常識では、デタラメとされたのも有名ですね。
当時、天上界というのは完全な法則に支配された完璧な神の住む世界と思われていました。凸凹のない美しい世界がある、と。
ガリレオは望遠鏡をもっとも早くから取り入れた一人でした。
望遠鏡が発見されると、自作の望遠鏡を作り、天体観測を行ったそうです。
だから、当時のかなり優秀な教授たちは自分の目で地上と天上を見たんだとか。
地上のものと見比べれば、天上のそれがいかに今迄信じられていたものと違っていたか、最高のデータとしてわかったはずです。
それでも月に凸凹(クレーター)があることを、認められなかったんですね。
「望遠鏡は地上では正しく動くが、天上ではそうではない」とか言って。
人ってすごいな~。そんなこじつけをするんだな。
自分の持つ仮説の引力って強いんですね。
コペルニクスさえ縛られた「常識」
その後コペルニクスが登場。
二千年近くの常識であった天動説を完全に否定し、太陽を中心とする円の周りを地球が回っているという地動説を唱えました。
しかし、コペルニクスでさえ、常識に縛られています。
「宇宙は完璧な世界である」という常識に縛られ、「地球が不完全な円」つまり楕円の上を回っているとは思いもしなかったのです。
おかげで、軌道上どうしても後ずさりする星があったり・・。
こびりついた仮説をはがすのは、天才でさえとても大変なようです。
自分の頭の中の仮説に気づくには?
つまり、ひとは自分の仮説という枠組みから外れたデータは、データとして見ないのです。
自分に合わないデータは無視しちゃいますよね。
つまりは、世界の見え方自体が、一人一人の頭の中にある仮説によって決まっているんですね。
われわれはよく事実、事実っていいますけど、実は「裸の事実」などないのかもしれません。
自分の頭にこびりついている仮説に気づく方法は?
ポール・ファイヤアーベントという科学者は、「タブーに挑戦し、あらゆる仮説に触れてみよ」とアドバイスしています。
例えば民主主義国家に住んでいる私たちも、あえて専制国家や共産主義国家の「思想」にも触れてみたり。
少しでも違和感があったり、腑に落ちないことがあったら、「この仮説はどのパターンか?」と考えてみる。
そのためには、あらかじめたくさんのパターンに触れて免疫力をつけることが必要なのだそうです。
仮説は時に180度くつがえる!?
誰もが冥王星は惑星だと思っていますし、教科書にも載っている常識です。
でも、今科学的には小惑星に格下げすべきだとされています。ただ、これは科学を超えた文化的な広がりを見せている定着しているので、科学的には「惑星ではない」にしても、社会的には「惑星のまま」。
おそらく、冥王星が惑星であるということは「グレーな仮説」とでも呼ぶべきものです。
お医者さんに「この手術を施すと病気が治ります」と言われて、それが仮説であることに気づかず、まったく吟味しないで手術を受けたら、とりかえしがつかないことになるかもしれません。
その手術が専門医の間でどこまで信憑性があるか、わりと調べますよね。
専門家が白と断定している仮説だって180度ひっくり返ることもありますよね。
1960年代には、「赤ちゃんには、母乳よりスキムミルクを与えた方がいい」という医学仮説が存在し、多くの母親がスキムミルクで育児をしたと聞いたことがあります!
でも、現在の免疫学では、生まれたての乳児には母乳を与えないとまずい、というのが常識ですもんね~。
育児には三歳児神話(3歳までは母親が自分で育てないと、子供がゆがむ)や、クラッシック音楽が胎教に良いといった、グレー仮説が沢山ありますよね~。
私も鵜呑みにしていたことがたくさんあります。
でも、専門家の意見でさえ、時代とともに大きく変動するんですね。
先入観や固定観念に縛られずに、知的に柔軟に対応することは、大事ですね~。
誰でも多重人格、友達の性格も「仮説」
例えば、仲の良い友達同士のトラブルです。
あいつはこういうやつなんだというように、われわれは無意識にその人間の人格をひとつに決めつける傾向がありますよね。
「そんなのはアナタらしくない」と言われて怒っている友達の相談を受けたことがあります。
性格も仮説にすぎないんですって。
私たちはジキルとハイド氏のように、多重人格ものをテレビや本で見聞きすると、ゾクゾクしますよね。
でも、哲学の分野では有名な「役割理論」というものがあるんでだそうです。
そこでは、多重人格は当たり前の考え方になります。
ある人間をひとつの人格で説明することはできない、というのが考え方です。
犯罪で捕まった人について、テレビで「どんな人でしたか?」とインタビューすると「そんな風には見えなかった」「よく挨拶してくれて、まじめでいい人だった」などの返事を聞きますよね。
実際には、誰でもが沢山の人格、つまり「役割」をごく自然に日常生活でえんじているんですね。
テレビで優等生的な発言をしていた人が、いきなりハレンチ罪で捕まるのも、驚くべきことではなく、その人はそういった人格も持っていた、というだけの話だそうで。
自分自身を考えても、「役割理論」ってしっくりしますよね。
ただ、「この人は何を考えているのかわからない」という状況は気持ち悪いもの。
だから、「こういうやつに違いない」と一つの仮説を立てて「とりあえず、この人は大丈夫」と思って付き合っていくしかないですけどね~。
アナタも私も正しい
この役割理論はアインシュタインの相対性理論と根っこを同じくしています。
「場面によって対象の見え方が違ってくる」ということです。
例えば、太郎君と次郎君がいて、お互いに別のロケットに乗って宇宙空間ですれ違ったとします。
すれ違う瞬間にお互いの時計を望遠鏡で見たとします。
太郎君には自分の時計に比べて、次郎君の時計が遅れているように見えます。
一方、次郎君にも自分の時計に比べて、太郎君の時計が遅れて見えるんだそうです。
????? へ?
太郎君の時計に比べて次郎君が遅れているなら、次郎君から見たら太郎君進んでいなければならないと思います!!!
心理的な時間の違いが二人に生じているならば、わかります。
相対性理論では、問題となるのは物理学的な時間についてです。
アインシュタインは、「物理学的な時間も、心理的な時間と同じようにひとつではない」ということを主張したんだそうです。
役割理論と同じで、太郎君の時間と次郎君の時間のどちらも正しい。
全体を統一する絶対的な唯一の仮説がない、という意味で仮説と仮説が常に共存しているのです。
ひとつの仮説に統一できないから「相対性」というそうです。
・・・ワタシのゆるいの脳みそには、少々理解しがたいです。
つまり、相対性理論では、「どっちが正しいかではなく、両方とも正しい」ということが根っこの考え方だそうで。
えー!!
科学的に見ても、「両方アリ」ってアリなんだー!?
アインシュタインは、「両方アリ」って言ってるんですね~。
そんなこと言ってるのは、齋藤一人さんと小林正観さんだけじゃないのね?
ひとりの人間をひとつの人格だけで説明できないように、ひとつの現象をひとつの仮説だけで片付けない、ということだそうです。
おいしいラーメンかどうかは、食べる人次第
自分でおいしいと思っているラーメン屋に友達を連れて行ったのに、「まあまあだ」などと言われること、ありますよね。すごい悔しいですけど!!
そのラーメン屋が「うまい」のか「まあまあ」なのかの事実は、「誰から見ると」という「視点の設定」によるものですよね?
つまり、「誰から見ると」というシチュエーションの違いで、物理的観測事実が異なることは、あっていいんだ、と。
「人を殺す」ということ
例えば、戦争でも戦勝国の英雄は、人殺しでも悪と国からはみなされない。
敗戦国では罪人として裁かれます。
世間の仕組みや政治・文化が仮説として私たちにしみこんでいるんですね。
あくまでも「どの視点から見たのか」という問題です。
相対的にものごとを見る
仮説はひとりずつ違うモノ。
だかあら、科学的に考えてみても「話が通じない」というのは当然起こりうる当たり前のことなんですね。
自分の仮説が相手に通じていないから、話が通じない。
だから、喧嘩になる前に「この人は、どの仮説の中に生きているんだろう?」という具合に相手の心を読んでみることが大事だそうです。
それでもわからないことが多いかもしれませんが、「ああ、こういう仮説のもとにこの人は自分の世界を構築しているんだ」とわかるかもしれません。
そうしたらきちんと同じ土俵の上で話し合いをすることも可能になるでしょう。
・・・うーん、努力目標だな。
グレーゾーン
ひとつの仮説を絶対視することなく、常に「グレーゾーン」なんだな~という観点から眺めることが、大事ですね。
「私は絶対に正しい!!」という主張そのものが、
科学的じゃないんですね。
学問の世界では、「客観的にモノを考えること」が大切だとされています。
しかし、世の中に100%の客観はありえない。
だって、客観は主観の寄せ集めですよね。
でも、みんなバラバラの主観で生きていれば、混乱を招きます。
どう協調させるのか。
あなたの頭も、私の頭も、仮説だらけ。
この2点を理解すること。
さらに科学的な考えを進めるならば、「権威」を鵜呑みにしないで、さまざまな意見を相対的に判断する「頭の柔らかさ」を持つこと。
それが、思い込みを捨てる方法だと著者は言います。
「どっちの考え方も正しいのかもしれない」
「あなたも私も、世間も間違ってるかもしれないけれど」
そんなことを頭の隅に置いておくこと、そんな判断の仕方ってすごく柔軟で科学的なのかもしれません。
アインシュタインも言っているくらいなんだから、違って当たり前!という結論でございました。
とりあえず、正しいと主張するのを止めてみよう・・・・・・。
考え方の違いに苦しんでいるみなさま、一緒にがんばりましょうね~~!
夜中も冷え込みますので、温かくしてお休みください。
では、また。