対人関係の中で、不愉快な思いにさらされることは、よくあることです。
しかし、このとき間違ってはいけないのは、攻撃してくる「その人」に問題があるだけであって、決して「みんな」が悪いわけではいという事実です。
こんばんは、ラブです。
わたしが他者に何ができるか?を考える
昨日は、「他者貢献」について勉強しました。
たとえば家事をしていて、自分ばかりが働いている場面。
さらに家族から「ありがとう」の言葉が聞けなかったとしても、食器を片付けながら、「わたしは家族の役に立てている」と考えることが大切です。
ちょっと腹が立つこともありますけどね。
「他者が何をしてくれるか」
そんなことにフォーカスした人生から自由になりましょう。
「わたしが他者に何ができるか」
このことに注目するように心がけたり、実践してみる方が、キモチが実はとてもラクになりますよね。
イライラしながらお皿を洗うよりも、楽しんでウォークマンを聴きながらハナウタまじりにやっていた方が、見ている子どもたちの考え方が変わると思います。
「結婚なんて、嫌な家事を押し付けられるものだ」と思うか
「母親というものは、なんだか楽しそうなものだ」と思うか。
それによって、選択が変わってくることも大いに考えられます。
重大です。
手伝いだって、笑顔で頼めばたいがいやってくれるものです。
手伝いにペナルティーをつけたもの・・・例えば「下膳を忘れたら、こずかいを減らす」など・・・では、「家事の手伝い」がネガティブな意味合いを持ってしまいます。
そこに、「家族は仲間」だと思えない土壌を作ってしまうでしょう。
そのためには、大人が率先して「なぜわたしだけが?」「なぜみんな手伝ってくれないの?」の感情を捨てなければなりません。
実践の難しさ
わたしたちは、何十年も生きてきました。
だから、一人で皿洗いをしていたり、一人で休み時間に雑用をさせられていたり、自分だけが居残りで仕事をさせられていたりするシチュエーションの中で、「わたしは役に立てている」という気持ちを持つのには、かなりの訓練が必要です。
アドラー先生自身も、
「個人心理学は、おそらくすべての心理学の中で、学び実践することが、もっとも困難である」
と述べています。
アドラー心理学をほんとうに理解して、生き方が変わるまでに、「それまで生きてきた年数の半分」が必要になるといわれています。
いま40歳の人は、半分の20年を足して、60歳までかかるのです。
他者を信じる勇気
他者を信頼する勇気を持つことは、大変勇気が必要です。
ときに裏切られ、傷つくことも大いに想定されます。
しかし、裏切るかどうかは相手の課題です。
もしもあなたが傷つくことがあったら、大いに悲しむこともあるでしょうし、それは受け入れるべきだとアドラー先生は言います。
誰でも受け入れ、信じろと言っているのではありません。
その人との関りにハサミを入れることがあっても、それはあなたの課題です。
ただ、信頼のない対人関係だけでは本当の人生の楽しみはありません。
自分を受けいれ、大事にしたいその人も丸ごと受け入れることで、あなたの人生がより豊かになっていくのです。
攻撃する人は、その人の問題があるだけ
他者に対する信頼をもちきれない人にとって、どうしても踏み出せない理由は、過去に他者に攻撃されたことによって臆病になってしまったことが考えられます。
たしかに、世の中には善人ばかりではありません。
対人関係のなかで不愉快な思いにさらされることは、多々あります。
しかし、このとき間違ってはいけないのは、いずれの場合も攻撃してくる「その人」に問題があるだけであって、決して「みんな」が悪いわけではない、ということです。
神経症的ライフスタイルを持った人
神経症的ライフスタイルを持った人は、なにかと
「みんな」「いつも」「すべて」
といった言葉を使います。
「いつも自分だけが損をする」「すべて間違っている」
というように。
こうした生き方は、人間の調和を欠いた生き方であると、アドラー心理学では言っています。
ものごとの一部を見て、すべてを判断する生き方です。
ユダヤ教の教えに、
「10人の人がいたら、そのうち1人はどんなことがあってもあなたを批判する。
あなたを嫌ってくるし、こちらもその人のことを好きになれない。
そして、10人のうち2人は、互いにすべてを受けいれ合える親友になれる。
残りの人は、どちらでもない人だ」
というのがあります。
注目すべきは、あなたを嫌う人か、大好きな人か?
あなたを嫌う1人にフォーカスするのか、それよりもあなたを大好きな
2人にフォーカスするのか。
人生の調和を欠いている人は、嫌いの1人にフォーカスして世界を判断しています。
どうでもいいはずの小さな出来事に、焦点を当ててはいけません。
そこから世界を評価してはならないのです。
それは、人生の調和を欠いた間違ったライフスタイルです。
吃音や赤面が気になって人前で話ができないとすると?
本著では、吃音や赤面症を持つ人について書いています。
「吃音があるから、赤面してしまうから、人前で話をするのが苦手」
という人がいたとします。
しかし、そんなことをあざ笑って喜ぶ心無い人は、実際は10人中何人いるでしょうか?
ちょっとくらい吃音があっても、ふつうに待って聞いている人が10人中9人だと思います。
しかし、確かにたまにわらう人がいます。
そのヒトの内面の方が恐ろしいです。
心のどこかに何らかの重大な問題を抱えていると思われますね。
吃音や赤面を笑うという、「人間としてかなりやばい」人たちに笑われることって、重要視していいのでしょうか?
そこに注目して、人前では話ができない、なんてもったいないですよね?
わらいがあるとしたら、その人たちの実に切実な内面の疾病・・というか特性(専門家との関りが必要)の問題が横たわっているだけ。
吃音や赤面があるヒトの問題ではないですよね。
ちなみに、こうしたことを平気でわらえちゃう人って、どんな人間関係を持っているか想像がつきませんか?
ほんとうの意味で重症で、問題を抱えているのは吃音や赤面をわらえるこの人です・・・。
攻撃する人も、同じです。
「ひとを攻撃したい」という欲求が先にあるのであって、怒っている理由は
「攻撃するために探してきたもの」でしかありません。
そういう人は10人中1人は、必ずいるものです。
あなたは、道端の吸い殻と、頭の上に広がる桜、どちらに心を置きますか?
人の心は、マイナスイメージなものに持っていかれるようにできていますね~
!?
しかし、訓練していけば変われます。
訓練方法のちょっとしたスキルは、別の本で学習していきます。
日頃から「大好きでいてくれる2人」にフォーカスして楽しく生きていきましょうね!
春の雨が降る1日でした。
草木も水を得て、また鮮やかな色を見せてくれると思います。
おつかれさまでした。
ゆっくり休んで、よい夢を見てくださいね。
では、また。