自然的に落ちる「恋」ではなく、意思の力で作り上げる「愛」。
「他者を愛すること」は「愛されること」より難しいものですね。
こんばんは、ラブです。
人類がみんなで幸せになるために必要なこと
第1次大戦に従軍したアドラーは、「すべての戦争を終わらせる戦争」と銘打った戦いが、欧州全土を焼き尽くす結果なったことを目の当たりにします。
「戦争をなくすため」にアドラーが考えたことから始まるアドラー心理学。
人同士が「わかりあえない」ことを認めたうえで、「いま、わたしやあなたが」人を信頼することを求めています。
何でもない日々に「無条件で身近な人から信頼していく」というわれわれの試練があり、日常に大きな決断が迫られる。
一人一人の1歩が、世界を変えていくのだとアドラーは言います。
無条件に信頼を「与える」という行為
無条件に人に信頼を与える行為。とても難しいです。
しかし、金銭に置き換えてみると単純です。
金銭的に裕福な人が、手元にたくわえがあれば、人に施しを与えることが比較的ラクにできますね。
同じように「心を豊かに保つ」ことで、他者に尊敬や信頼を寄せることができると本著では説明しています。
「心を豊かに保つ」・・・自己受容がしっかりできていて、自己肯定感が高くて、たとえ信頼を裏切られたとしても、それは「まぁ、これも他者の課題だから」と割り切れる精神を持っていること・・でしょうか?
アドラーは言っています。
人間同士は、「与える」からこそ「与えられる」。
「与えてもらう」ことを乞いてばかりいてはならないのです。
それは、「心の物乞い」なのです。
アドラー先生の「愛」は厳しい!
アドラー先生の言葉を理解するには、「愛」に踏み出すことで得られます。
人生のタスクにおける最終関門、それが「愛」だからです。
アドラー先生が言う「愛」は、動物的な「落ちる」だけのものではありません。
「落ちる」だけなら、誰でもできます。
そんな動物的なものは、人生のタスクではないのです。
意思の力で、何もないところから築き上げるからこそ愛のタスクは困難だとアドラー先生は言います。
人は、この原則を知らないままに「愛」を語ろうとするから、「愛」について語るとき「運命」や「本能」などの言葉に頼ることになってしまう。
自分にとって最も大事な課題であるのに、意思や努力の範疇外として、直視しないでいるのです。
さらに言うなら、「愛すること」をしていない、と言えるのです。
恋は物欲?
こんな例を挙げています。
たとえば、あなたがお店のショーウインドーでたまたま目にしたドイツ製一眼レフに心を奪われてしまった。
触ったこともない、ピントの合わせ方もわからないカメラだけど、いつか自分のものにしたい。
肌身離さず持ち歩き、気の向くままに写真を撮ってみたい、という気持ちでいっぱいになった。
カメラでなくとも、カバンでも車でも、楽器でもけっこうです。
その気持ちは、わかりますよね?
このとき、あなたは恋に落ちたかのようにカメラに取りつかれ、とりとめない欲望の嵐に襲われるはずです。
目を閉じればシャッター音が聴こえ、他のことも頭に入らない状態に。
しかし、実際に手に入れてしまうと、半年もしないうちに飽きてしまう。
どうして、手に入れたら飽きるのでしょうか?
あなたはドイツ製のカメラで「撮影したかった」のではないからです。
それを獲得し、所有し、征服したかっただけなのです。
「恋に落ちる」は、まさにこの状況と同じですよね。
手厳しいな、アドラー先生!
ロマンもへったくれもないですね、アドラー先生!
「もちろん、人間相手なのでロマンティックな物語を付与することはできます」
と本著は続きます。
しかし、本質的には物欲と同じ、と言い切ります。
確かに、「恋に落ちる」プロセスは、これとほぼ同じですね。
多少の物語やらライバルやらが付与されるだけのことです。
そして、この物語の映画のエンドロールが終わった後、ふたりが結ばれた後の「関係」にアドラー先生は注目します。
当然ですが、誰だって「愛されたい」
人々が求めてやまない「愛される技術」。
アドラー先生の講演活動で、聴衆からもっとも多く寄せられたのが、恋愛相談であり、「他者から愛される技術」だったそうです。
それは、今日もまったくの前進をみせていませんね。アドラー先生、ごめんなさい。
書店に行けば「愛されメイク」だの「人の心をつかむ技術」だの「これがモテる服だ」だのが山積みになっていますよね。
しかし、アドラー先生が語る愛は、まったく別のモノでした。
それは、能動的な愛の技術、すなわち「他者を愛する技術」だったのです。
習わない技術
愛の問題とは、「愛すべき人との出会い」がむずかしいということなのでしょうか?
わたしたちは、「ひとりで成し遂げる課題」や「20人で成し遂げる仕事」については習っているが、「ふたりで成し遂げる課題」は習っていない、とアドラー先生は言います。
小さな赤ん坊が、2本の足で立ち、言葉を覚え、学問を学んでいくこと。
それは、「ひとりで成し遂げる課題」です。
仕事は、ひとりで取り組んで見えるようでも、協力者が必ずいます。
画家であっても、絵の具やキャンバスを作る人がいて、画商に購入者がいるのです。
どんな仕事でも「協力し、みんなで成し遂げる仕事」なのです。
「わたしたち」の「幸せ」を考える
『嫌われる勇気』でも、「幸福とは、貢献感」であるとありました。
「わたしは誰かの役に立っている」と思えることだけが、自分に価値があると実感することができるのです。
人生の3つのタスクは、「仕事」「交友」「愛」のタスクでした。
「仕事」では、協力して働き合う「信用」の人間関係ができます。
そこに分業ができ、自分の得意分野を追求するなかで「他者貢献」ができる。
自分の貢献感を求める「わたしの幸せ」を追求する利己的な態度によって生まれます。
「交友」を成立させるのは「あなたの幸せ」です。
相手を尊敬することをベースにしています。
無条件でひたすら信じ、ひたすら与える。
利他的な態度によって、交友の関係は生まれます。
そして「愛」を成立させるのは、「わたしたちの幸せ」です。
不可分なる「あなた」と「わたし」の両方の幸せを追求すること。
「わたしたち」という主語に変わるとき、幸福な生を手に入れるために、「わたし」は消えてなくなるといいます。
「わたしたち」という主語かぁ
すてきだと思いますね。
夫婦も時間が過ぎると、「あなたの幸せ」と「わたしの幸せ」が平行線だったり、どちらかが我慢するものになったり。
それは、たしかに幸せではないですね。
それを・・・「わたしたち」という主語で考えていくこと。
自ら「実践していくことは、とても厳しい」と言っているアドラー心理学ですから、一朝一夕にできることではないのは、確かなことです。
でも、どちらかの幸せじゃなくて、どちらにとっても幸せになるって、いいですね。
大事な人とすごすときに、「わたしたち」を考える。
愚痴ばかり言っても、状況を分析しても、意味はないんだとアドラー先生も言っています。
身近な大切な人と「わたしたち」の視点で生きていけたら、すてきですね。
春の花が色とりどり咲き誇る季節ですね。
明日もあなたにとってすてきな1日になりますように。
では、また。