『幸せになる勇気』の「『ほめて伸ばす』を否定せよ」の章です。
現状の学校や家庭教育の現場をどう解釈するか、ということでこの章の解釈には困りました。
こんばんは、ラブです。
自分の人生を自分で選択する
昨日は、わざと人の嫌がることをしてしまう人について考えました。
共同体の中での特別な場所は、誰でもほしいもの。
けれど、賞賛や注目喚起ができなくて、「憎しみ」を求めてしまうということがあります。
「こんな自分になってしまったのは、お前たちのせいだ」と暴力や暴言、反社会的な行動に手を染めることもあります。
それに対して手っ取り早く屈服させようと、大人側は叱ってしまうこともあります。
親や教育者が「裁判官」になって、いかにその子が困ったことをするか、他人事として愚痴ることもあります。
それでは、子どもたちのためになりませんよね~?
手がかかることではありますが、子どもたちの決断を尊重し、その決断を援助することが大事なのです。
失敗することも認め、それをフォローしていく距離をもって見つめていくこと。
それによって子どもたちは、「自分の人生は自分で選ぶことができる」ことを学ぶことができるのです。
「ほめて伸ばす」を否定せよ
「ほめて伸ばす」を否定するのは、現状の日本において異端視されるものと言えるでしょう。
褒められればうれしいし、そのために勉強したってかまわないじゃないか、と今までワタシも思っていました。
しかし、「競争で1位になるため勉強する」という動機づけは、将来その子のためになるでしょうか?
「学校の勉強がよくできたから、医者になりたいからという気持ちはないが難関だから医学部に進学する」、というのと同じで、目的不在の選択をすることにつながるのではないでしょうか。
もともと勉強は自分のためにやるもの。
将来その知識を使うために学ぶ。
それが「目的」です。
しかし、その学習効率を上げるためにやっていたはずの「順位」や「競争」や「賞罰」を絡めるという「手段」。
日本では多く用いられていますよね。
しかし、その「手段」が「目的」とすり替わりやすいのですね。
将来が見えにくいから、「順位」「競争」「賞罰」に走りやすい
目の前にすぐ見える「順位」や「競争」は、将来の自分というあまりに漠然とした何かよりもわかりやすい。
そして、自分の将来を選択するということにも、カスミがかかっている。
本当に自分が自分の将来を選択できるのか?という漠然とした疑問が、将来をより一層もやっと薄ぼんやりしたものにさせるのではないでしょうか。
親やまわりの声に左右されて「とりあえず大企業」だったり。
その選択にしっかりした自分の考えはあるのか?
小さいころから「自立」させてもらっている諸外国とは違い、ボウリングのガーターレーンがこっそりとついているような日本ですからね。
そんな「あんまり楽しくなさそうな将来の選択」が見えていたら、目の前の競争の方が楽しいだろうな~と思いますね。
つい手を出しすぎてしまう毎日に大反省です・・・。
「競争」は他者をすべて敵にする
他者との競争に主眼を置いてしまうと、他者はすべて敵になりますね。
本著では、登場人物の青年が『嫌われる勇気』で聴いたとおりに褒めたり叱ったりをやめた学級経営をしたら、学級崩壊を招いています。
同じく前著からの登場人物である哲人は、学級に蔓延している「競争」も原因であると述べています。
学級全体に「他人不信」が蔓延していたとしたら、確かに教室が落ち着くわけがありませんね。
「先生にほめられる」ことを目的に子どもたちが勉強を頑張る・・・・。
一見美しく見えなくもありませんが、友達は敵となってしまいますよね。
かといって、まったく褒めも叱りもしない担任では、本著のごとく学級崩壊するでしょうから、現実的ではないでしょう。
しかし、「協力し合い」「助け合う」ことがメインとした雰囲気って大事ですよね。
そうした環境こそが子どもの成長には必要かもしれません。
無償の愛
褒められなくても、自分に満足すること。
「自分は自分であるだけですばらしい」
そう思えることは、人間の基盤として必要なことです。
しかし、ワタシたちは往々にして「褒められもしない普通な自分を認める勇気」を持つのは難しいですよね~?
親が絶対的な愛情で、「あなたはあなたであるだけで、最高にカワイイ」と言われないと無理でしょう?
しかも、親がそう言えるのは、末っ子でしかも親の精神環境がかなりよろしい場合に限られるのではないでしょうか?
第1子に産まれたワタシのひがみもあるとは思うのですが・・。
上の子には親が期待を十二分にかけ、「お前の出来はわたしたちの評価」とばかりに重すぎる責任感いっぱいに育て上げられるパターンが多いと思います。
所により、出来のいい下の子にそれが行ってますけど。
ある程度手を抜くことに決めた(?)子には、愛情だけたっぷりかけたりしますよね。
ずるいなー!あっちがよかったなー!!
そう思い、ふと自分を見ると、
「頑張らないと、親や大人に愛されない」
という嫌な感じの刷り込みが自分にべったりと張り付いている・・・。
だからアドラー先生に勉強させてもらっているんですけどね。
「わたしであること」の勇気
自分が「かけがえのないわたし」であるという勇気を、どう持っていけるのか。
それが今後の自分自身にも認める課題なのだと思います。
日本人がみんな「自分に価値がある」と思えるようになったら、高いプライドと自尊心を持つ国になっていけますね。
終りのない「承認ほしいよ地獄」。
そこから抜け出すには、
「わたし」の価値を自らが決定すること
つまり
自らの意思で、自らを承認する
それが自立であると本著では述べています。
「普通のわたし」
そう思いながらも、自分に自信がないから、他者の承認を必要とすることが
あります。
それは、「普通であることの勇気」が足りていないとアドラー先生は指摘しています。
何の変哲もない「その他大勢」であること。
それは、侮辱でもなんでもありません。
「人と違うこと」に価値を置くのではなく、
「わたしであること」に価値を置くのが、本当の個性だと言います。
他者と引き比べ、その「違い」を探すのは、他者を欺き自分に嘘をついているのです。
誰かの役に立っていると思えることが、自分に勇気を与えるとアドラー先生が言っていました。
他者貢献で勇気をためて、普通のありのままの自分をまずは自己受容です。
そして、これからを担う子どもたちと向き合う!
大人として、「あなたたちのやることを見守っているよ♡」という姿勢を示してあげられたら、と思うのです。
熊本の大きな地震では、たくさんの方が大変な思いをされていますね。
自分ができることは、ちゃんとした場所への募金くらいしか思いつかないんですけど。
今週もおつかれさまでした。
ゆっくり休んでくださいね。
では、また。