あの人に、どう思われたかな?
ぐずついた天気だと、そんなことばかりに頭がいってしまうことも多いものです。
他人からの評価を気にしだしてしまうと、余計なプレッシャーやストレスを抱えてしまうことはわかっていても。
他者の視線を気にしないで、ありのままに振る舞うためのメソッドの紹介です。
今回のキーワードは、「妄想」。
こんばんは、ラブです。
他人の目が気になるのは?
誰でも承認してほしいという気持が起きるのは、当たり前のことです。
問題は、そこから「他人の目を気にしてしまうか」の理由、プロセスです。
まず、「認められたい」という気持が起きます。
そして、それによってその要求に反応して、「どう見られているのだろう」と妄想する。
つまり、承認欲が作り出す妄想が「他人の目が気になる心理」の正体です。
私たちが気になってしまいがちな
「職場でどう評価されているのか」
「嫌われたのではないだろうか」
「今回の件で信用を失ったのではないか」。
こうした不安はどれも、自分の価値へのこだわりが生み出す妄想です。
妄想が過剰になると「思い込み」になります。
嫌われている、陰で笑われている、悪口を言われているなどを妄想してしまう。
辛い状況です。
本人には、本当にそう見えています。だから厄介です。
これを抜け出すコツは、どんな思いも「妄想に過ぎない」と自覚することです。
「脳のデタラメ」を真に受けない
妄想には、際限がありません。
どんな最悪なものでも、簡単に思い浮かんでしまうのが妄想です。
ハレンチだったり、残酷だったり、人には絶対言えないイケナイ妄想も、脳は簡単に作り出してしまいます。
そもそも脳は、見聞きしたすべての情報を”反応の記憶”として蓄積していて、本人が築いていないことも、ため込んでいます。
これは修行を深めていくと、見えてくることがあるそうです。
それらの記憶が複合して、「見たことのない妄想」を作り出すこともあるそうです。
その瞬間の怒りや憂鬱や疑いの感情が働いて、本来なんでもないことを「悪く解釈する」(思い込む)ことがあります。
私たちはネットやマスメディアで様々な映像や情報で煩悩を刺激されています。
そうした心にインプットされた”反応の記憶”は、自分でも予期しない形で脳裏によみがえってきます。
それらの妄想について、「これは妄想に過ぎない、何が浮かんでも反応しない」という覚悟が大事なのです。
確かめようのないものは、放っておく
私たちは夢や妄想を見ると、「これには重大な意味があるのではないか」「何か理由があって見えたのではないか」と考えたくなります。
確かに意味がある可能性は否定できません。
ただ重要なのは、「その妄想を確かめるすべはない」ということです。
宗教もカルトも占いも、心を扱う多くの世界では、「確かめようのない」内容を真理として説きます。
しかし、ブッダ自身は最初からそれらを取り上げていません。
生きることには苦しみが伴うことを認めながらも、苦しみには原因があり、消すことができるという考え方を持っているからです。
この徹底して合理的な態度は、現代に大事にすべきことではないでしょうか。
「前世」や「死後の世界」などの「確かめられない」ことは追いかけない。
それは「あなたの人生の苦しみを解くのに必要が無い」からです。
あなたの人生の目的をはっきりさせる
仏教の目的は、人間が抱える現実生活の苦悩の「正体」を理解して、苦しみから解放することです。
妄想を追いかけることは必要ありません。
むしろ、自分の心をよく理解するように努め、合理的な考え方や理解の仕方を学んでいくことです。
あなたの苦しみがこの人生で生じたものである以上、この人生の中で必ず解決できます。
そう信じましょう。
他人の目が気になる人にとって大事なのは、「妄想を止めること」が最優先です。
妄想グセこそが「他人の目が気になる」という悩みの元凶だからです。
「妄想は妄想に過ぎない」
「妄想には際限がないし、根拠もない」
「私はこれ以上、妄想を追いかけない」
など、妄想に対する向き合い方を確立させてしまうことを著者は勧めています。
夢や妄想でいろいろ見てしまうと「潜在意識からのサインかな?」なんて思ってしまいます。
でも、本当に幸せになるためにできることをやっていく方が、きっと近道ですね。
身体の感覚に意識を集中してみたり、その妄想を「貪欲、怒り、妄想」のどれなのか分類して心の状態を理解してみたり。
しっとりとした天気だと、気圧の関係もあって、妄想に気持ちが走りがちですね。
ちょうどよいので、「あ、今妄想している」と気づく練習だとか、「今歩いている足に心を向けてみよう」だとか、「えーっと、これは『怒り』かな?」なんて分類してみるだとかしてみようと思います。
寒暖差が激しく、体力を奪われがちな毎日です。
よく休んでくださいね。
では、また。