イタリアのワインと職について日本と橋渡しをする仕事に就いている著者が、イタリアj人の時間概念と瞬発力について語る本書。
著者の身近な人たちは、”イタリア人に痛い目に遭わされた人”ほど、本書を読んで、強く共感するそうです。
そんなありがたい周囲言葉に、著者は「イタリア人に対して無性に腹立たしかったり、イライラした気持ちを言語化して客観的に見られるようになったのでは?」と推測しています(笑)。
ちなみにフランス人は全く違う感性を持っていますし、ゲルマン系ももちろんです。
目の前のことを仕事だろうとプライベートだろうと、おおいに楽しむのがイタリア流だそうです。
時間にもちょっとルーズで、遅れることもしばしば・・・いや毎日のようで?
でも、お互いそうなので、お互いに慣れっこ。
だからこそ、最後の最後の帳尻合わせの瞬間になると、火事場の馬鹿力を出す馬力も持っている。
なぜなら、四六時中「時間が押す」ことばかりだからだそうです。
そして、最後にはうまくいってしまう。
人生を日々謳歌しているイタリア人の生き方を本書は楽しく軽快に紹介しています。
ちょっとうらやましいそんな考え方。
わたしも少し取り入れてみたいと思いました。
日本とイタリアを年中往復している著者。
そうした暮らしが始まったのは大学生のころでした。
イタリア語も少し話せるようになった著者は、日本のCM撮影に来たクルーたちと現地スタッフの通訳のバイトをしました。
CMに出演するタレントのスケジュールの関係で、撮影日は1日しかない。
ところが、当日のその瞬間になって、必要な現場の機材に足りないものがあることが判明しました。
イタリア人の責任者は、「ボローニャから持ってくるしかないから、あと2時間はかかる」という返事。
当時まだ駆け出しだった著者はそのまま日本のクルーに通訳しました。
当然日本側は怒ります。
「事前に必要なものはファックスしたはず!」
それをまた、イタリア語に訳して伝えると、
「ないものはないんだから、仕方ないよ。
そんなにカリカリせずに待ちなさい」。
それをまた、そのまま訳すと日本人クルーは怒りを募らせます。
それを往復していると、
「いま手配している機材が到着するまでどうしようもない。
いちいちうるさい」
と逆切れ状態になり、雰囲気は険悪になる一方でした。
見かねたイタリア側のプロデューサーが、著者を隅に呼んで話してくれました。
「イサオ、よく聞け。
確かにローマで打ち合わせたことは守れなかった。私たちのミスだ。
しかし、いまこころ論じても何も生まない。
この仕事は必ずやり終える。
いままでの撮影だって、終えられなかったことはないんだ。
送れたくらいでイライラしないで、いい絵が撮れるようにリラックスするよう日本側に伝えてくれ。
絶対いい絵が撮れるようにするから」と。
このイタリアのプロデューサーが教えてくれたことは3つ。
不測の事態が起こることの方が普通で、慌てる必要はまったくなく、腹を立てる方がおかしいという哲学?。
第2に、そのようなことがイタリア全体で常態化している限り、不測の事態に慌てることは愚の骨頂であり、どっしりと構えて解決策を見出すこと。イライラしてもむしろ事態は悪化する。不測の事態を乗り越えた時により良い仕事を準備できることこそが、重要なのだ。
そして第3に、どんな不測の事態が起こっても、イタリア人は諦めずに、ほとんどの場合は最後になんとかする破格の能力がある、ということ。
すべてが緻密に準備され、計画通りに物事が進む日本とは、ずいぶん異なる仕事のやり方でしたが、まさに「最後はなんとかなるイタリア流仕事術」の最初の先例になりました。
「食べる、歌う、愛する」に象徴されるように、イタリア人は怠け者で働かず、女性を追いかけて、歌を歌って気楽に暮らしているように思われがちです。
でも一方で、イタリアはEUの中核を担う経済大国であり、ファッション、デザイン、車、農業、食品の分野で世界をリードしています。
そんな考え方をしていても、結局結果を残すことができる。
わたしたちは、日々細かいところまでこだわって準備をしたりします。
ちょっとしてミスにも自己嫌悪して、必死になりがち。
でも、もっとおおらかに構えたとしても、結果を得られるのではないでしょうか。
仕事とプライベートは、あえて分けないようにする
公私混同はいけない、というのは多くの国での考え方です。
多くの国では、オフの時間には、仕事が割り込んでくることを極端に嫌います。
ちょっとくらい、という甘えが許されません。
ところがイタリアでは、公私の区別があいまいなのだそうです。
公共窓口では、受付の人が携帯電話で家族か友人と無駄話をしていてサービスが停止して、長い列を作って並んでいる人が待たされたりしています。
店員がおしゃべりに夢中で、客が呼んでも気づかないことがしょっちゅう。
思い立ったらおしゃべりタイムがスタートするし、待たされている側も別に怒りだしたりしないのです。
しかし、待たされているお客たちは怒りだしたりもせず、ちゃんと並んで待っているのだとか。
さらにはプライベートに仕事が入り込むことにも寛容です。
家族経営の中小企業が多いこともあり、家族の食卓がいつの間にか営業会議になって、仕事の話で大いに盛り上げり、そこですばらしいアイデアが出てくることもよくあるのです。
また、時間の概念に著しくかけているので、自らの労働時間に関しても、権利意識が低い。
残業にも寛容で、すこしぐらい時間がずれ込んでも気にしないそうです。
12時のアポが13時にずれ込んで、昼ご飯時間にかかってしまうことも多いイタリア。
レストランが閉店時間を過ぎてしまうこともしばしばですが、レストランはたいていの場合待ってくれるそうです。
対照的なのがフランス。
アポがあろうがなかろうが、時間になったらシャッターを閉めるという考えの人が多い。
このシャッターを閉めてしまう人は特にオーナーでなく従業員に多いそうです。
もちろん遅れた方が悪いに決まっているのですが。
この考え方の違いは、何なのでしょうか?
著者は、銀行の窓口業務をしている人と、駄菓子屋の店先に座っているおばあさんを例に出しています。
銀行の窓口にいる人は、そこに「私の時間」は入り込む余地がありません。
業務時間は絶対に私用電話なんかしないし、おしゃべりもしない。
でも、終わりの時間にはきっちり終わりです。
駄菓子屋の店番をしているおばあちゃんも、駄菓子やメンコを売る任務を遂行しています。
ですが、同時におばあちゃんの「私の時間」であり、生きる場所でもあります。
知り合いが訪ねてくればおしゃべりもするし、子供たちと遊んだり、説教したりもする。
そのついでに駄菓子を売っているのです。
この違いが、イタリア人とそのほかの国の考え方の違い。
一瞬一瞬を生きながら、そのなかで仕事があり、プライベートがある。
公私混同や時間にルーズは困りますが、そういうスタンスって、わたしは自分の中にもう少しあってもいいかな、と思います。
仕事はお金を手に入れるためのもの、と割り切るのではなく、人生の楽しい時間としてカウントできるなら、1日のうちの8時間も、もっと楽しめそうです。
こことのころ、ちょっとした失敗にもびくびくする自分がいたのですが、もうすこしだけ気軽に生きてみよう、と思える1冊でした。
本書の後半は、けっこう「イタリア人のこまったところ」も羅列されていて、面白いです。
今週もお疲れさまでした。
ゆっくり休んでくださいね。
では、また。