「とらわれ」とは、「無意識レベルで、自らを縛っている制限や制約」のことです。
人間はもとより自由な存在です。
しかし、ルールや規則、常識というあなたが後から身につけた「後付けソフト」。
その中には、高性能で使えるソフトもたくさんありますが、あまり使えないソフトもあるのです。
余計な「とらわれ」であなたをいっぱいにしては、操作性が損なわれてしまいます。
そこで、そのソフトが使えるか使えないかを見極め、使えないソフトはさっさと処分してしまおう、というのが本著です。
こんばんは、ラブです。
その「とらわれ」はあなたを幸せにしてくれるか、が見極めポイント
実は私たちの頭の中には、この「とらわれ」という後付けソフトがどっさり溜まっています。
実は使える「とらわれ」と使えない「とらわれ」の見分け方は、カンタンです。
ポイントはずばり、その「とらわれ」は、あなたの幸せに貢献してくれているのか?という問いを自分の内側に投げかけることです。
私たちは生まれてくるときに、何の「とらわれ」も持たずにこの世に生まれてきます。
ですから、基本的にすべての「とらわれ」を手放したとしても、理論上まったく問題なく、生きていけるはずなのです。
だって、それはスタート地点、生まれてきた状態、初期化されるだけのこと。
でもいきなり、その状態は怖いし、社会生活を送るうえでは支障があります。
ですから、まず明らかに不要な「とらわれ」から捨てていきましょう。
残念ながら「正しい怒り」は存在しません
「とらわれ」に気づいたとき、「この”とらわれ”は、私の幸せに貢献してくれるだろうか?」と自らに質問して、不要な「とらわれ」に気づいて捨てる・・・というアプローチは確かに有効です。
しかし、自分がとらわれていることに気づくことと、その考え方が「とらわれ」かどうかを見極めることは、簡単なことではありません。
人は誰でも自分なりの「正しさ」を持っています。
それは自分なりの価値観、「自分専用のものさし」だと言ってもいいでしょう。
その「ものさし」で「これはいい」「これはダメ」と善悪や損得を価値判断しています。
「自分専用のものさし」=「自分自身」だと言っても、決して言い過ぎではないでしょう。
この決して切っても切れない関係である「自分のものさし」は、日常のありとあらゆる場面で、きわめて自動的に使われている存在なので、自分で気づくことさえ難しいのです。
ある意味、あなたが「常識、当然、当たり前、すべきこと」と思っていることのほとんどは「とらわれ」です。
特に、あなたが「正しい」と思っていることのほとんどは、「とらわれ」です。
あなたが「正しさ」を持ち出すとき、それは「自分専用のものさし」をアピールしているときにほかなりません。
あなたが「正しさ」を振りかざすとき、「見ろ!これが私のものさしなのだ!」と「自分のものさし」を自慢しているだけに過ぎないのです。
自分の「正しさ」=「ものさし」を自慢するのは勝手ですが、それがあなたの幸せに貢献しているかどうかは、冷静に判断してみる必要があるでしょう。
ここで、はっきりと著者は断言しています。
「正しい怒り」など、存在しません。
自分の「怒り」を正当化したくなる気持ちになりますが、「怒り」はあなたの個人的な感情であり、そこには「正しい」も「間違い」もないと述べています。
心理学的に見れば、「怒り」は第二感情だと言われています。
「怒り」は後天的に学習して身につけた感情であり、もともと人間には備わっていないものだと言われています。
さらに「怒り」の前には、その「怒り」の原因となる別の感情が必ず隠されているモノです。
それは「悲しい」「寂しい」「つらい」「ショック」だったり、「嬉しい」「良かった」の場合もあります。
こうした第一感情をそのままストレートに表現するのが恥ずかしいと思ってしまったために、その第一感情を隠そうとしたり、カモフラージュするために採用されるのが、「怒り」などの第二感情だと言われています。
つまり、「正しさ」とあ、自らの「ものさし」を披露しているだけであり、「怒り」は本音を隠すために「偽りの感情表現」ですから、「正しい怒り」は二重の意味で本質から遠くかけ離れています。
それはあなたを幸せにするのか
そもそも、「正しい怒り」を表現することで、あなたの幸せ度はアップするでしょうか?
自らの本音を偽って、「オレのものさしはこうだ!すごいだろう!」と自慢しているような人と、あなたは仲良くできる・・・仲良くしたいと思いますか?
あなたが「正しい怒り」を表現すればするほど、あなたのまわりにいる人は、そんなふうに感じているのです。
それで、あなたは本当にいいのでしょうか?
それで、あなたは幸せでしょうか?
まずは、「正しい怒り」にとらわれそうになっている自分に気づきましょう。
「それって本当に正しいの?」「どうして怒っているの?」という問いを常に自分の内側に投げかけることを習慣づけることです。
この「正しい怒り」という「とらわれ」に気づき、そこから脱出することができれば、それだけであなたの人生は、今までと全く違うものになります。
「当然」「当たり前」「すべき」は立派な「とらわれワード」です
「正しい怒り」以外でも、日常の中で「とらわれ」に気づくためのヒントはたくさんあります。
まず、あなたが日常使っている口グセの中に、「とらわれ」を見つけるヒントがたくさん詰まっています。
「当然」「当たり前」「すべき」は、どれも立派な「とらわれワード」です!
「電車が時刻通りに来るのは当たり前・・・」
「お金を出せば、欲しいものが手に入るのは当然・・・」
「子どもは親の言うことを聞くべき・・・」
これらはどれも、当たり前のこと、常識として私たちは認識していますが、本当にそうなのでしょうか?
外国では、公共の交通機関が時刻通りに動かないことがほとんどです。
でも、「慣れ」とは恐ろしいもので、日本にいると遅れが1分2でも、イライラ。
世界では、お金を出しても欲しいものが手に入らない地域もたくさんあります。
親子関係にしても、そうです。
いずれにしても、私たちが「当然」「当たり前」「すべき」と思い込んでいることの中には、こうした「とらわれ」がたくさん潜んでいます。
まずは、その「とらわれ」に気づくことが何より大事な姿勢です。
「当然」「当たり前」「すべき」と口にしたくなったら、あるいは口にしてしまったら、それは間違いなく「サイン」。
これらの言葉を口にしてしまったら、まず「自分がとらわれているのかもしれない・・・」と気づくことから、すべては始まります。
ちょっとだけ、怒るのをやめてみました。
「〇〇なら、こうあるべき」ととらわれている自分がいたのだな~と思いました。
自分のものさしの押し付けだったのだと思います。
ちょっと手放すことで、ラクになった気がします。
週末になりましたね。
素敵な夢が見られますように。
では、また。