人間は常に助けたり、助けられたりして生きていかなければならない生き物です。
しかし、本当に効果的な援助とは、相手に対して先生のように差し出がましく注意することではありませんよね。
その人の資質を見出し、成功へのノウハウを教えてあげることなのです。
親子でも職場でも、相手にずーっと付き添って、成功への道のりをともに歩んであげることはできません。
しかし、相手が自分の力で立ち上がり、進んでいくための力をつけるために、どうしたらいいかを教えてあげることはできます。
私は私のためだけに存在する
著者ナポレオン・ヒルは子供の頃、教会に行くのをさぼって父親にムチで打たれたことがあったそうです。
そのとき教会では、キリスト教の中でも非常に頑迷な宗派に属する5~6人の信者が、ひどく熱心に地獄の悲惨さを説いている最中でした。
そういう押しつけがましさが、著者にはたまらなく嫌だったのです。
教会の礼拝をさぼって釣りに行こうとした著者を見つけて、彼の父親は激怒し、釣竿を折ってこっぴどくムチで打ちすえました。
「親父の馬をこんな風にぶっ叩いたら、親父はどんな顔をするんだ!」
とナポレオン少年はムチでぶっ叩かれながら思っていました。
彼の悲鳴を聞いて継母が助けに飛んできます。
「この子をもう一度叩いたらどう?
その代わり私はあなたを永久に捨てて出ていきますからね。
あなたという人は、どうしてこの子の思い通りの生き方をさせてあげないの」
父はその言葉で二度と著者にムチを使うことはなくなり、著者もたたかれるようなことはしなくなりました。
もちろん、子供らしいあれこれは、こっそりやったようですが。
この事例をはじめ、あちこちに著者によるちょっと大きめな継母ラブが入っていて、読んでいてもビミョーではあります。
が、とにかくこの瞬間から著者は、「自分であること」への自由を獲得していきます。
著者の望んでいたのは「他人のために存在するような自分」ではなく、「自分そのもの」であることであると、はっきり自覚したからです。
子どもは容赦なく叱られたり、強制されたり、「お前のためだ」などと諭されると、そのうち自尊心がダメになってしまうもの。
挙句に、その子供が大人になると、他人に寄りかかるような人間になってしまうと著者は言います。
継母の言葉によって、著者は「自分であること」ができるようになりました。
父をも変えた継母
先ほどの事例のビミョーさはともかくとして、この継母は、著者だけでなく、著者の父の人生も「父のためのもの」に変えていってあげられる素晴らしく豪快な人でした。
このエピソードはこの前に読んだ『思考は現実化する』(きこ書房)からの引用です。
もともとこの家族はたいへん貧相な家に住んでいて、父は鍛冶屋をしていました。
著者の「ナポレオン」という名も、裕福な叔父からとったもの。
「少しでもいいから豊かになれますように」と希う貧しい家族でした。
8歳でナポレオン・ヒルの実の母親は他界しています。
ある朝、継母は入れ歯を落として壊してしまいます。
しかしそれを、父が鍛冶のテクニックでそれをみごとに修理します。
継母はその技術を大喜びでほめたたえます。
やがてそんなこともあり、父は鍛冶屋の知識をもとに、さらに独学で歯医者の技術を学んで、歯の治療ができるようになりました。
腕がよかったのでしょう。
評判になってあちこち遠くからも呼ばれて、歯を治療して回るようになりました。
しかし、医師免許がなく歯の治療をしていたわけですから、
「これ以上やるなら刑務所行きである」
と役場から警告されます。
いくらかけあっても決して首を縦に振らない役場。
諦めかけていた父を、継母は大学に送り出しました。
大学の門を見ただけでも「嫌だ」と言い出しそうな、そんな貧乏な出の父を大学に行かせたのです。
素晴らしい妻に支えられ、もとから現場で歯医者を(無許可で)していたこともあり、父はすべての教科で優秀賞をとり、4年生の大学を3年で卒業しました。
しかし彼女はなんと父の学費を払うために、前の夫の生命保険のお金を使ったのでした!
大事なのは、「これをやり遂げるんだ」という強い信念であり、信条!
感情と信念が結びついたとき、必ずどこかに道が、がっつり開けていくのですね。
他人がその人自身になることを妨害してはいけない
著者は、言っています。
あなたがもし、完璧主義なところがあったとしても、他人に自分と同じように完璧であることを期待してはいけません。
なぜなら、人はその不完全さに救われることもあるからです。
むしろその不完全さをバラエティだと思って楽しむくらいの寛容さが必要です。
だから、あなたがプロの説教師でないなら、説教をしないことは大切なこと。
あなたが専門の教師でないならば、しつこく容赦ない教え方はしないことは、本当に相手を伸ばしていくためには、必要なポイントです。
確かに教育は重要です。
しかし、だからこそ教育は、技術と知識と経験の十分な人のみが行うべきものだと著者は言います。
それ以外の人間が、狭い知識や経験の中から、他人にとやかく意見したところで、つまらない衝突を生むだけだと著者は言います。
著者の知り合いのある人がこんなことを言いました。
「もし、天国があっても、僕は死んでも天国には行きたくないね」
著者はそれを聞いて「へぇっ?」と思い、その理由を聞きました。
「それはね、何でもかんでも完璧なところに住んだって、少しも面白くないからさ」
その人はこともなげに答えました。
この人がアメリカでも著名な実業家であり、しかも心の平安をたっぷり維持しているというのは、決して偶然ではないと著者は言います。
彼が誰かを教化したという話は聞いたことがないそうです。
きちんとした自分自身である人間には、そんなことは必要ないのです。
人はだれしも、長所と欠点を併せ持っているのです。
欠点を改めることが、長所を殺すことになる場合も多いもの。
長所も欠点もないような人間と付き合って、いったい何が楽しいというのでしょう。
自分が自分の心を見ち続けつつ、他人にもその人自身の心を持たせるための一番良い方法は、あなたが自分の考えの中のある部分を言わないでおくことです。
あなたは一生の間、自分自身の考えや信条を説明しつつ生きていく必要はありません。
むしろ、そうすることで不必要な衝突を引き起こすほうが多いはずです。
これは例えば、宗教や政治など、論争の起こりそうな問題については、特にそうです。
誰も、著者が支持する政党は知りません。
したがって誰も著者の見解について著者を怒らせることも、腹を立てることもできないのです。
何人ものおせっかいな人間たちが著者の心の中をのぞいて、そこに何があるのかを見ようとしたことがありました。
かつて、一度だけですが、ある女性からこんな手紙をもらいました。
「あなたのどの著作にも、神様が出てこないのはなぜでしょうか」
それに対して、著者はこんな返事を書きました。
「マダム、私が本を書いたときの精神で私の著書をお読みいただければ、どのページにも神様を見ることができるはずです。
ただし、そのためには、印刷された文字ではなく、行間をお読みください」
この季節には、たくさんのお別れもつきものです。
人は人を判断するとき、言葉よりもその行動でその人となりを見ていますよね。
背中で生き方や信条を教えてくれた人たちに、感謝したいです。
今日もお疲れさまでした。
ゆっくり休んでくださいね。
では、また。