猫のメメとモエ

生命線があと10年分しかない!どうせなら、やりたいことに(あまりお金をかけずに)ちょっかいを出すことにした猫好きのブログ。メンタルトレーニング、自己啓発、一人旅、猫めぐり、山歩き、真剣な子育て、ジョギング、写真。その他いろいろ。

『「努力が報われる人」と「報われない人」の習慣』塚本亮

4月から、なんだかうまくいかない、という人、一緒に読んでください。

ワタシは同僚の一人とのモチベーションが合わず、なんだか空回りしています。

「もっとしっかりやりたい」と思うあまり、仕事を一人で背負い込んで、体調を崩してしまっています。

ほかの2人はやる気がある人たちですが、パートタイマー。

新しい提案をしても、「じゃあ、どうぞどうぞ」と言って、その同僚はさっさと帰ってしまいます。

体力も体調も落ちてしまい、思考力が無くなると、「とにかく手当たり次第に終わらせよう」と、なんでも自分で背負っては、翌日「無駄な仕事だった」なんてこともありました。

 

本書と一緒に作戦を練り直します。

自分がやるべきことをもう一度見直して、立て直しをしようと思います。

努力が報われるやり方に自分を立て直し、顧客満足度を上げます。

 

 

努力が報われる人は努力を手段に過ぎないと考え、

報われない人は努力を正義だと考える

がんばる姿は正しい。

でも、今している努力が正しいかどうかは検討の余地がありそうです。

正しいか正しくないかの定義は何でしょうか。

目的によって、そもそも努力しないといけないのか、から考える必要がありそうです。

 

”努力すること”が目的化してしまっている人がたくさんいます。

がんばっている人は美しいですが、がむしゃらに努力すればいいわけではありません。

たとえば以前、「市販品の離乳食を子供に食べさせている」と公言した人に、反対意見がたくさん出て大炎上したことがあります。

しかしイギリスのジョークでこんなものがあるそうです。

「イギリスのお母さんの味は電子レンジの味」

イギリスは日本ほど料理をする文化がありません。

スーパーでも冷凍食品の割合がほぼ半分ほど。

それでもイギリスの人たちは間違いなく成長しています。

時間やエネルギーは有限です。

仕事や子育てなどを頑張って疲れている人に、料理までがんばれというのは意味があるでしょうか。

 

また、自分が経験した苦労を誰かにさせないと気が済まない人もいます。

それでは、時代は前に進みませんよね。

お金を正確に数えたいなら、自動紙幣計算機を使った方が早い。

テクノロジーや周りにいる人にお願いしてやってもらう方が生産的ですよね。

努力が報われる人は操縦可能なものに集中し、

報われない人は知らない何かに翻弄される

ティーブン・コーウ”ィーの『7つの習慣』に、人生は「コントロールできるもの」と「コントロールできないもの」がある、とあります。

ワタシががんばってしまっている「同僚にクオリティの高い仕事をしよう、という気持ちを共有したい」は、まさにこれです。

わたしたちは、身の回りで起こっているさまざまな出来事に関心を持っています。

株価や天気、給料に上司のご機嫌、週末の予定、好きなチームの勝敗まで。

しかし、それらは操作できない。

だったら、手放してしまった方がいい。

 

自分の態度や言動は、自分次第で変えることができますが、自分以外に働きかけることはできても、操作はできませんよね。

 

そこへ無駄な気力を使うことなく、自分自身をコントロールすることに集中する。

「あいつをリーダーに育てたい」と思っていても、相手にその気がないなら、難しいもの。

本人の資質の問題かもしれません・・・・うちの同僚もそうです。

自分でコントロールできるものって、実は意外と少ないのだと著者は言います。

変えることができないことに時間を費やしても、時間のムダ。

私たちができることにフォーカスして行動してみましょう。

そうしたら状況が変わるかもしれない。

残念ながら結果はコントロールできません。

でも、そこから学ぶことはたくさんあるはずです。

報われる人は目の前のリアルにフォーカスし、

報われない人は結果にこだわる

私たちの周りには、自分が「コントロールできるもの」と「できないもの」があるとありました。

ここで努力の方向性は、自分がコントロールできることですが、その「成果」も自分の努力だけでは決定できないと著者は言います。

 

確かに、試験でも恋愛でも、どんなに努力しても可能性は100%にはなりませんよね〜?

 

注目すべきは!結果ではない。

目の前のこと、自分ができること。

そこに意識を集中していくことが、自分を幸せにする!

結果にこだわってイライラ自分を追い込むよりも、今自分がするべきことに集中した方が、よっぽど努力は報われますよね。

 

努力が報われる人は失敗も栄養にし、

報われない人は起こってもいない失敗を恐れる

「失敗と書いて、成長と読む」

これは元プロ野球監督・野村克也さんの言葉です。

 

何かにチャレンジするとき、

「こうやって失敗してしまったらどうしよう」

「失敗して恥をかいてしまったらどうしよう」

「うまくいく確率が低そうだから、やめておいた方がいいかな」

というネガティブな思考が頭を駆け巡ることがあります。

著者にもあるそうです。

失敗が好きな人はいないし、成功の方がうれしい。

でも、失敗をしないことを最優先にしたなら、何もしないのが一番。

でも、そこに成長は無いのですよね〜

 

著者が何かするときの判断基準は、

「うまくいくか、いかないかより、成長できるかどうか」

短期的にみるとたくさんの失敗やミスがあり、恥をかくこともあるかもしれません。

でも、すべての失敗から学ぼうと考えれば、何もかもプラスに変えることができます。

 

努力が報われる人は自分に期待せず、

報われない人は過信でパンクする

ずっと頑張った就活で、1社も受からなかった。

トップ営業としてみんなを引っ張ってきたのに、ちょっとしたミスで左遷になった。

 

誰にも、行動した結果はコントロールできません。

でも、その結果をどう受け止めるかはコントロールできますよね。

「なんでもっとこうならなかったんだ」

「もっとこうしておけば、うまくいったはずなのに」

と受け止めることができます。

 

しかし一方で、

「まぁ、今の自分ならこんなものかな」

「自分がやることだし、ミスをゼロにすることは難しいよね」

と受け止めることもできます。

 

ストレスになるのは前者です。

自分に期待値が高かったにもかかわらず、結果が予想よりも悪かったので、その差が大きいことにストレスを抱えているのです。

結果が同じでも、自分への期待値が低かったら、

「そんなもんだよね」

と受け止めることができます。

 

自分がもっとできると思うから落ち込むのです。

何があっても

「自分はこんなものだ」

「人生こんなものだ」

と思っていたら、落ち込まなくて済みます。

 

最も大切なことは、目の前にある結果に落ち込んでいるのはなぜなのか冷静に把握することです。

 

とらえ方によって、次のステップが変わります。

セルフ・コンパッションという言葉が心理学にあります。

良い面・悪い面を含めて、ありのままの自分を受け入れることです。

「こうありたい」「こうすべきだ」という自分像が厳格だと、自分に優しい言葉をかけることがありません。

 

うまくいかないこともあります。

そのときに

「自分はもっとうまくできるはず」

「もっと上をめざせる」

などと自分を追い込みすぎる必要などないのです。

「これも人生」

「これがありのままの自分だ」

と降参してしまいましょう。

 

追い込みすぎているかもと思うときは、セルフ・コンパッション。

 

セルフ・コンパッションが高まると、自分の周りに本当に大切なものがあることが気づけるのです。

 

これを書いていて、わかったことがあります。

ワタシは、意欲のない同僚に意欲を上げてもらいたい、と思っていました。本当に〔笑〕。

でも、それは無理ですよね!?

そういう人なんだもの!

言葉の端々にそれは明らかでした。

でも、

「仲の悪そうなチームに見えそうでかっこ悪い」

とか

「もっと言い方を変えれば、あの人に意欲を持たせられた。

初めの言い方が乱暴すぎた。

わたしには相手のモチベーションを上げることができたはず。

去年もできていた(気がする)」

「今までこんなモチベーションの低い人は(1人しか・・・いや、2人、いや3人〕しか〔?〕いなかった」

と、自分を追い立てていました。

休日もその人のことばかり頭に浮かび、休んだ気がしません。

体調は悪くなる一方。

足は痛める、咳は止まらない。

 

違うんですよね~

自分に期待しすぎ。

モチベーションの低い子は一生低い!

前のその子の同僚が、体調を崩して退職したりしたんだから、筋金入りの怠け者なのに。

 

自分ができることを、パートさんたちと頑張ります。

自分も生粋のADHD

不器用なところも多く、勢いはあるけれど、年齢を重ねて体力も落ちてきた。

何ができるのか。

何を大切にして、何を軽くするのか。それが大事です。

うまく采配して、健康で楽しく笑顔で働いてみせます。

いや、気負いすぎかしら。

 

でも、とにかく自分を責めるのはおしまいにできる本でした。

一緒に読んでくださって、感謝しています。

 

あなたの明日が笑顔でありますように。

では、また。